イランという国で
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2008年 05月 09日 |
大学の教職員の部屋が並ぶ一角に、給湯室兼非常勤講師控え室があって、そこにはサモワールとお茶がいつも用意されています。
 私は日本語学科の部屋にいることがほとんどで、お茶を飲みたいと思うたびにそこへ出るのも面倒で、学科室に用意された小さなポットに給湯室でもらったお湯と、これは学科室に用意されているお茶の葉で飲むのですが。

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(給湯室の写真がないのでチャイハーネのサモワールを代理に)

 先日、サモワールからお湯をポットに移しながらしみじみサモワールを眺めていて気がつきました。
 三つあるサモワールには、それぞれメーカーの名前かサモワールの名前かよく分かりませんが、名前のプレートがついています。
 その一つ、「Forutan=謙譲」にちょっと微妙な気分になってしまいました。日本で、たとえばポットに「謙譲」という名前がついていたらどんなかなあと思ってしまったのです。
 サモワールがへりくだってどうするんだろうと思いつつ、もう一つの「謙譲」を思い出してしまいました。

 イランの人はナッツや乾燥果物、各種の種をよく食べますが、それらを売るハールヴァール・フォルーシーにまさしく「Tavazo’=謙譲」という店があるのです。
 ナッツの質が良いとか、味付けが良いとかそういうことから、この店は非常に有名で、いつもお客でいっぱいです。そのため、「支店」を名乗る店も多く、本来の店には「当店には支店はありません」という張り紙がしてあるほどです。
 日本へ一時帰国をするときなどは、私もここでおみやげを買うのですが、「今日、タヴァーゾへ行こうと思っているんだ」と言うのを、たとえば、ペルシア語を勉強し始めたばかりの外国人で、それがハールヴァール・フォルーシーの名前だと知らなければ、「私は、今日、謙譲へ行こうと思っています」という文章に翻訳するんだろうなあと思うと、なんだかおかしくなってしまったのでした。全く意味不明です。私自身がイランに来たばかりの頃にまさしくそうだったのですが。

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 もっとも、この「タヴァーゾ」はお値段の方は全く「謙譲」はしていなくてとても強気なのですが。

 「謙譲」はイランにおいては大切な徳目の一つ。様々な場所でその重要性が語られています。「どう生きるのが良いのか」ということを分かりやすく描いたペルシア語の古典文学『ゴレスターン(薔薇園)』にもわざわざ「謙譲」という章が設けられているくらいです。
 確かにイランの人たちは言葉ではとてもへりくだる人が多いのですが、態度や内容がをよくよく聞くとそうでもないことがあったりします。
 もちろん卑屈にへりくだる必要はないとは思うのですが、実は自信満々に謙遜してみせるというのも一つの技だなあと、ちょっと感心してしまうところであったりするのです。相手に対して敬意を払うという基本は守りつつ、必要な主張はするというさじ加減が上手なのだろうなあと思うのですが、まねをするのはなかなか難しいのです。

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by sarasayajp | 2008-05-09 18:23 | いろいろ |
2008年 01月 23日 |
 仕事でヤズドまで出かけていました。
 テヘランよりもずっと南にあるので、テヘランに比べたら暖かいかと期待していたのですが、平原の中にある町にも雪が降り、凍り付いているという気候でした。テヘランに比べると風が強いため、体感温度はかなり低かったと思います。ヤズドへ移動する飛行機の中から見た沙漠もずっと真っ白で、こんな光景は初めてでした。

 二年ぶりくらいだったヤズドで気がついたのが、ヤズド方言の中にちらちらと現れる言葉でした。
「ミギャマー、〜〜〜〜」
「ミギャマー、〜〜〜〜」
 と、言葉の最初に現れる「ミギャマー」、私はこれまでシーラーズの方言だと思っていたのですが、ヤズドでも使われていることに初めて気がついたのです。これまで何度もヤズドに来ていながらどうして気がつかなかったのか不思議なのですが。

「みぎゃまー」

 シーラーズではとにかくよく耳にします。
「ちょっと聞いてよ」「まあ、聞きなさい」とか、そんな感じで使っているようなのですが、言葉の最初に使われることが多いこともあって耳に残ります。この「みぎゃまー」とひらがなで書いた方がぴったりくるような響きも何となくお気に入りでした。それなのに、なぜ、ヤズドで使われていることに気がつかなかったのか、人間の耳というのは不思議なものだと思います。一度気がつけば、次から次へと耳に入ってきて、ごく普通に使われていることが分かるのですから。

 仕事そのものは非常に親切なヤズドの人たちの協力によって問題なく終わりましたが、ちょっとクセのあるヤズド方言には少し悩まされた二日間だったのでした。

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2007年 12月 20日 |
 ムスリムには5つの義務があり、その五番目がハッジ月のハッジ(メッカ巡礼)だとされています。
 大統領閣下がそのハッジに招待されたとか何とかで、新聞やテレビなどではなんだか盛り上がっているようです。私自身は、今年は周囲にハッジに行った人がいないため、「ああ、そういえばもうハッジだっけ?」という感じなのですが。

 しかし、一昨日から昨日にかけては、巡礼者に向けたハーメネイー師の演説の急ぎの翻訳という仕事が入ってしまい、「そうだよね。ハッジだもんね。演説もするよね」と、改めてハッジの期間だったことを実感してしまったのでした。

 ハーメネイー師の演説というのは、私にとって、翻訳しにくいペルシア語のトップクラスに位置づけられています。
 アラビア語混じりだというのはまだ構わないのですが、ペルシア語がなんとも複雑怪奇というか、一文が長い上に、文章の最初と最後で全く違うことについて語っていたりすることや、非常にあいまいにぼかして語っていたりで、「この部分はどこまでを指しているんだ?」「この部分とこの部分はどう繋がるんだ?」と非常に悩むことがしばしばです。イランの人にとっては全然問題じゃないのでしょうが。

 もちろん、そういう文章はハーメネイー師だけではなく、あちこちで見られるのですが、やはりネットに載せるための文章というのなら、できるだけ演説としてそれらしい日本語にしたいなあと思うのに、文章の構造と意図とに悩むうち、時間切れとなってしまい、なかなかそれができないというところが辛いところです。私の文章力の問題でもあるのですが。

 逆に、日本語からペルシア語の翻訳をしていても、「どういう意味なのか分かりません」とペンを放り投げたくなる文章には多々出会います。
 特に研究者の文章というのは独特で、「これは本当に、本人は分かって書いているのだろうか?それとも同じジャンルの研究者なら分かるのだろうか?」と悩むこともしばしばです。一つの文章の中でいくつもの話題が入っていたり、主語が何なのか、いったい何を指しているのか良く分からず、悩んでしまいます。
 日本語のままだと何となくすっと読んでしまうものが、外国語に置き換えようとしたときに実は意味不明だったことが分かってしまうということに改めて気付いてしまった今日この頃なのでした。
 自分の文章がどうなのか、自分では分からないだけにちょっと怖いなあとも思います。

 来年度は大学院で翻訳関連授業を担当する予定なのですが、何をどう教えたら良いのやら、今から頭が痛いのでした。

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by sarasayajp | 2007-12-20 17:14 | いろいろ |
2004年 11月 28日 |
 先日険悪なメールのやりとりをした相手と大学で待ち合わせ。
 雨は降り出すし、気分は重かったのですが、とりあえず出だしは穏やかに。
 今後のことを打ち合わせ、これで終わるかと思ったところで、「ところで、先日のメールのことだけど」と戦闘開始。
 結局、昼休みで学生が溢れているロビーで、喧々囂々と非難の応酬。

 まあ、あれやこれや言い合い、次第に言い合いが低劣に。
「大体君のペルシア語は全然上達していない」
「あなたのペルシア語だってきれいかもしれないけど、字が汚くて読めないわよ」
「そういう君だって、タイプミスばかりだ。大体どうしていつもdとrを間違えるんだ」

 ここで、たじろいでしまいました。
 私の負けです。

 私はMacユーザーです。仕事で必要なのでWindowsマシーンも持っていますが、Mac育ち(?)なのです。
 そしてこちらで書いている論文は、フォーマットなどの関係からWindowsPCでタイプをしています。どちらも長年使っているので扱いに困るということはないのですが、実はこれがちょっとくせ者なのです。

 まず、ペルシア語アルファベットのキー配列が、MacとWindowsで微妙に違っているので、うっかりミスをやってしまうのです。特に、彼が指摘した「d」と「r」はキー配列が逆になっているので、手元の下書き原稿などを見ながらタイプをしていると、うっかりとこの二つを逆にタイプしてしまったりするのです。
 ペルシア語に限らないでしょうけど、この二つの文字はよく使われますから、間違いも自然と多くなってしまうという困った文字です。一応プリントをしたあとに見直すのですが、何度見直しても、間違いはどうやっても残ってしまいます。

 それと、ペルシア語のアルファベットは32個あるのですが、これをキーボードを目一杯使って配列しているので非常にタイプしにくいのです。うっかりエンターキーを押していて、妙なところで改行されていたり。Macだとシフトキーを使ったりして、キーボード中央にアルファベットを集めてくれていて比較的タイプしやすいのですけど。

 言い負かされて悔しかったのですが、ともかく、和解をしてきたのでした。

 彼もメールで催促されたことが悔しかったのでしょう。この週末で仕事を仕上げてきたのでした。
 こんなに早くできるなら、どうしてもっと早く取りかからないんだろうと、「明日できることは明日でいい」というイラン人気質にため息が出てしまったのでした。
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by sarasayajp | 2004-11-28 00:19 | いろいろ |
2004年 11月 26日 |
 先日お話ししたもう一人の留学生のモチベーションの低さが伝染したのか、この二三日ちょっと調子が悪いままです。


 少し気分転換。

 先日お話しした、「がんばれ」「元気だそう」はやはり適当な表現がありませんでした。
 相手を叱咤激励ようするな言葉はこちらにはないようです。


 これはアラビア語とも共通しているのですが、ペルシア語には「受動態」が存在しません。文法としては存在しますし、現在は外国語の影響か使われるようになりましたが、本来あまり使われる言葉ではありません。あくまで自分が主人公。
 例えば、「彼は殺された」ではなくて、「誰かが彼を殺した」という言い方なのです。

 ところが、例えば「地震により25人亡くなりました」という時は、「地震により25人殺されました」という受動態なのがおもしろいところです。


 私がイランに来たばかりの頃に留学していた方から聞いた話しから。

 ペルシア語には、「常識」という言葉がありません。
 この方が一生懸命調べ、大学の先生をはじめとする色々な人に質問をしたのだそうですが、どうやっても、「ある一つの社会に住む人が共通して持つ知識や考え方」という概念に当たる言葉が見つからないのだそうです。
 ほとんどの人が、「bahush」がそれだ、と言うのですが、この単語は「聡明さ」とか「頭の良さ」を指す言葉であって、日本語で言う「常識」とは少し違います。もっとも、聡明な人であれば、そうした常識はわきまえているでしょうから間違いではないのかもしれませんけど。
 そして「常識」という言葉で人の考えや行動を縛ることをしない、そういうものがあるとしたらイスラームの規範、そんな感じです。

 もう一つ、別の言語学を研究している友人から聞いた話ですが、「工夫」という単語もペルシア語には存在しないとか。これもイランらしい話しです。日本人はやたらと工夫することが好きですけど、こちらでは「そんなちまちましたことする必要ないじゃん」と、あるものをそのまま使ってしまいます。
 ちなみに、「改良する」「改善する」という言葉はあります。

 ちまちましたことといえばもう一つ日本人が大好きな「節約」。
 これもペルシア語だと少し発想が違っているようです。日本語ーペルシア語、英語ーペルシア語辞典を調べてみると、「節約」にあたる単語はありますし、町には「ガソリンを節約しましょう」「電気を節約しましょう」というスローガンが溢れています。
 でもこの言葉も、もともとは「利益を求めること」から転じて「節約」になっています。日本語の節約という言葉の発想の基礎にある、ものを切りつめるという意味はあまり感じられません。使用を減らして利益を出すという意味では正しいのですけど。

 同じように日本語と発想が違うのが「お疲れ様」。
 「khaste nabashid=疲れないでください」
 日本語を見ると、疲れている人にこれはないだろうと思うような表現です。

 同じように微妙な表現が、何かをしてもらった時などに使う、「どうもありがとうございます」というニュアンスのお礼。
 「daste shoma dard nakone=あなたの手を痛めないでください」
 お手数をおかけしました、とか、そんなことしないで下さいな、ということなのでしょうけどなんとなく微妙です。
 今では単なる「ありがとう」の意味になっていて、それどころか、「痛めないでください」の部分が落ちて、daste shoma=あなたの手、で済ませている人もいます。一番最初にこれで言われた時には、「私の手が何?」とびっくりしたことを思い出してしまいました。


 言葉と風土・文化は切り離せないといいますが、本当にその通りだと思います。
 イラン文学を読んでいると、感情表現、特に愛憎に関する言葉はどっさりとあって日本語にしにくいのですが、日本語の色彩表現や自然の表現はペルシア語にはできません。それをいかにペルシア語、あるいは日本語にするかが翻訳の醍醐味なのでしょうけど、私はそんなレベルには到達できないようです。

 そういえば、馬やらくだ、羊に関する訳語も困るものの一つです。
 馬は、色や毛並みによってそれぞれ特別な呼ばれ方をされますし、らくだも雄雌、年齢によって全て違う単語が使われ、羊も雄か雌か、去勢されているかいないか区別されます。
「こんなの日本語にならないから」と、「馬」「らくだ」「羊」とするのですけど、味気なくなってしまうのです。でも、「三歳の雌らくだ」と説明的な訳をするのもできないしと、なけなしの頭を絞るのですが未だ上手い訳語が見つかりません。
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by sarasayajp | 2004-11-26 00:16 | いろいろ |
2004年 11月 24日 |
 「ちゃらんぽらん」
 いかにもいい加減そうな響きのする言葉です。言っていることはともかく、やっていることは適当な私にぴったりな言葉かもしれませn。

 これとほぼ全く同じ言葉がペルシア語にもあります。

 Charand-parand

 口語では「ちゃらんぽらん」「ちゃらんぱらん」と聞こえます。意味もほとんど一緒です。日本語だといい加減な言動を意味しますが、ペルシア語は意味もないくだらないことばかり言うことを指すというところが違うくらい。

 Charandの方に意味のない、くだらない、という意味があって、parandは語呂を良くするために付け加えただけの言葉だそう。ペルシア語にはそういう組み合わせがあります。例えば、子供のことをバッチェと言うのですが、口語の中で時々、「バッチェ・マッチェ」と言ったりするのがそういう用法。二つめには全く意味がなく、一種の言葉遊び。

 語源などが調べられるかと思い、ペルシア語最大の辞書「Loghat-name-ye Dehkhoda」を調べてみたのですが、残念ながら意味しか書いてありませんでした。

 日本の「大漢和」に匹敵するこの辞書を編纂したアリー・アクバル・デフホダーが、20世紀初頭に「スーレ・イスラーフィール(イスラーフィールのラッパ)」(※)という週刊誌に二年に渡って連載した風刺エッセイのタイトルが「charand-parand」で、彼はそこで当時の立憲制に対する反動分子を嘲笑するエッセイを書きつづっています。


 関係ないのですが、私はいたって真面目に生きているつもりなのですが、家族にはそう見えないらしく、二人いる妹の片方は「私はお姉ちゃんのようにならないから」というのがモットーだったそうです。私って妹に反面教師にされるほどちゃらんぽらんな人生を送ってきたのか?と、ちょっと悩んでしまうのでした。


※ イスラーフィールは、最後の審判の日にラッパを吹き鳴らし、最後の日が来たことを知らせる天使。
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by sarasayajp | 2004-11-24 05:50 | いろいろ |
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