イランという国で
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2012年 08月 20日 |
 ラマダーン中に、仕事である場所に出かけました。
 メンバーは運転手役の男性と、その同僚の女性、私の三人です。
 自動車に乗り込み、出発するなり、二人はなにやら楽しそうに会話を始めました。聞くともなしに聞いていると、男性は「シーラーズから何キロメートル離れたら断食をしなくてもよくなるか」をルーハーニー(イスラーム法学者)に確認しておいたという話です。
 どうやら、女性の方はほとんど断食はしていないらしいのですが(「時々している」とのこと)、男性の方は一応、会社内では断食をしている模様。

 町を出て、街道脇の店で水やジュース、お菓子を買い込み、目的地へ向かいます。
 ある程度走ったところで、「そろそろ大丈夫だよね」と、社内での飲み食いが始まりました。

 「旅に出ている間は断食をしなくてもよい」とはされていますが、それを、「自分が住んでいるところから○キロメートル以上離れた場合は旅と見なす」と決めてあって、それにきっちりと従うところがいいなあと、楽しくなってしまったのでした。

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こんなところを歩いて旅していた時代、断食などしたら命に関わったはず


 知人によると、イランの最高指導者ハーメネイー師によると、旅に出ている間(家を遠く離れている間)は、「断食をしてはいけない」のだとか。

 実際、女性はどうしても断食をしてはならない日が何日かありますし、体調が悪くかったり体力的な問題があったりして断食ができない人もいます。それに対しては、お金や食料品などの寄付や、他の機会に断食をすれば良いなど、様々な方法が提示されています。決して、「何が何でも断食をしろ」とは命じられていないはずなので、この夏、オリンピックに参加していたムスリムの選手の対応は、選手それぞれの問題とはいえ、少し気にかかったのでした。

 もちろん、断食をするかしないかはそれぞれの人の心と信仰の問題なので、それがいい悪いというつもりは全くないことをお断りしておきます。

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2009年 12月 19日 |
 大学内のある教授から、ねちねちとした嫌がらせを受けていてうんざりしています。
 ある日、「いい加減にしてもらいたいものなんですがねえ」とある日本人にこぼしたところ、「死んだ後に化けて出て来られないから、生きているうちにしつこくからむのでは?」と返ってきました。

 そういう見方もあるかと少し気分が変わりました。

 確かにイランでは死んだ後に化けて出てくる文化(?)はありません。死ねばそれで終わり、あとは最後の審判を待ちながら、週末ごとに家族に会いに戻ってくるだけです。

 イランでは、亡くなった家族の魂が週末ごとに家族に会いに戻ってくる、と言われていますが、自分の埋葬された墓に戻ってくるのか、墓はシンボルのようなもので「家族の許」へ戻ってくるのかは人によって考え方が少しずつ違っているようです。
 しかし、とにかく、日本のような生前の姿をとった「幽霊」ではありませんし、「死後に恨みを晴らす霊」「恨み故に成仏できない霊」というのもいないようです。

 ではイランにいわゆる「幽霊」がいないのかというと決してそうでもないようで、日本人同士で怪談をしていると、「そんなものはいない」と言い切るイラン人もいれば、その存在を認めているらしい人もいるようです。「自分も見た」「金縛りにあった」という人もいます。とはいっても、「知人や家族の霊につきまとわれた」とか「霊障で困っている」「自分を悩ます霊を徳の高いルーハーニーが成仏させてくれた(あるいは追い払ってくれた)」とかいった話にはならないようです。もしかすると、きちんと調査をしてみたらそういう話もあるのかもしれませんが、少なくとも、私の周囲ではないようです。

 そういえば、誰かをしつこく恨む人を「キーネ・ショトル(直訳すると駱駝の恨み)」と言います。駱駝は誰かに受けた仕打ちに対する恨みを忘れず、何年経ってもそれを晴らさずにおかないのだそうです。そこから来ている言葉なのでしょうが、個人的にはちょっとのんびりしたイメージで、深く・しつこく恨みつづけるという感じではないのでした。実際の駱駝は気性も荒いし、人の言うことをなかなか聞いてくれないのだそうですが。

 精神的・物理的に迷惑を被ってはいますが、幽霊になって出てこられるほどのエネルギーではないでしょうし、まあ、日本に戻るまでしばらくの間、適当にやり過ごすしかないようです。

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by sarasayajp | 2009-12-19 21:46 | イラン人 |
2008年 04月 12日 |
 夕方、乗り合いタクシーに乗ったときのことです。
 授業で使うプリントを作ろうとして用紙が切れていることに気づき、家から少し離れたところにある文房具屋へ。そこで用紙を買い込み、私の住む地区の中を循環している乗り合いタクシーに乗り込みました。

 私の家は乗り合いタクシーの終点で降りて少し歩いたところにあります。
 他のお客がみんな降りた後もまだ乗り続けている私に運転手が不機嫌そうに「どこまで行くの」と言うので、「最後まで」と返すと、「あんたなんか乗せるんじゃなかった」と吐き捨てます。
 何でそんなことを言われなければならないのか分からずにいると、私が降りる予定だった終点の手前でパンを買いたかったのに、終点まで行くとそこへ行くことができないからというのです。

 あまりの態度と口の悪さにちょっとむっとしてしまったため、つい言い返してしまいました。
「パンを買うことが、客を終点まで乗せるというあなたの仕事を果たすことよりも重要ならそうしなさいよ。私はそこで降りて歩くから。最後の審判の日に、あなたがタクシーの運転手としての義務を果たさないで、自分勝手な言い分で客にひどいことを言って迷惑をかけたことを神がどう判断するか知らないけどね」

 運転手は黙ってしまいました。
 結局、運転手は自分が行きたかったパン屋と終点のちょうど中間点で私を下ろしました。彼の良心と、おいしいパン屋へできるだけ早く行きたいという欲求の妥協点がそこだったんだなあと、上り坂を歩きながら思ったのでした。

「あんたなんか乗せるんじゃなかった」というひどい言い方でなくて、「用があるからもう少し手前で降りてもらえないかなあ」と言ってくれれば、「じゃあ、そこまででいいよ」と言えるのにと、同じことをするにしても言葉一つで受け取る側の気持ちはずいぶんと違うということを改めて思ったできごとだったのでした。

 まあ、イランには、日本のような「お客様は神様です」という考え方はないので、こういう言い方をするのだろうなあとは思うのですが。

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by sarasayajp | 2008-04-12 19:55 | イラン人 |
2008年 03月 10日 |
 大学である先生と話していたときのことです。
 イランでエステグラールと人気を二分するサッカーチーム、ペルセポリスの選手の一人が、国内便の中で騒ぎを起こしたという話を教えてくれました。
 なんでも、機内放送のマイクを使って、「現在、この飛行機は墜落中」とアナウンスをして、機内をパニックに陥れたのだそうです。
 もちろんこの選手は着陸後、厳重注意に処せられたそうですが、なんだかなあと思わずにいられない事件です。もっと呆れてしまったのが、この選手をかばった人が「子どもみたいなものだから」と言ったのだとかいうところでした。
 二十代も半ばになった人が、子どものようにやって良いことと悪いことの区別をつけられないということは恥ずかしいことなのでは?と思うのですがどうなのでしょう。

 そういえば、イランの先生たちや事務の人たちと話していて気になるのが、学生のことを「ばっちぇ(こども)」と呼び、子ども扱いすることです。
 先日、授業に遅刻してきた上にざわざわと私語を続けている学生たちに、厳しく注意をしたことがありました。
 その後、彼らが何を言ったのか分かりませんが、教務課の人が私に対して、「彼らはバッチェなのだから、寛大に見てあげてください。悪意はないんですから」と言いに来ました。なんだかなあ、です。悪意がなければ何をしてもいいのでしょうか。

 日本語学科の学科長も、学生に対してイラン人教師に比べて厳しい日本人講師に、「彼らはバッチェなのだから、無礼な振る舞いがあったとしても許してあげなくてはいけない。それが教育だ」と主張します。
 学生たちを「バッチェ」扱いして、なんでも「はいはい」と聞き入れ、甘やかすことが「教育」なのでしょうか?上位学年になればもう二十歳を過ぎているのですが、それでも非を非として注意しないことの方が、親切で教育的なのでしょうか。なんだか不思議です。

 もちろん、とてもしっかりしている学生もいますし、子どもっぽいといっても決して悪い意味でない場合もあるのですが、いつまでも子ども扱いしていて良いの?と思わずにいられないときがあるのも確かです。
 そういえば、日本では二十歳で大人とされますが、イランでは年齢で大人子どもを区切ることはありません。16歳から選挙権が与えられますが、これは16歳にもなれば判断能力があると考えてのことなのかどうか、ちょっと不思議だなあと思うのでした。


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2007年 12月 24日 |
 日本はクリスマスで盛り上がっているのでしょうか。

 テヘランでは、ショッピングモールの商店の一部がクリスマス飾りをディスプレイしているくらいで、それほど大がかりには祝いません。
 まあ、イスラームにとってもイーサー(イエス)は預言者の一人として敬意を払われる存在であるとはいえ、彼の広めた教えであるキリスト教(ペルシア語ではマスィーヒー)は欧米の象徴でもあり、数年前まではクリスマスの飾りを家の中で行ったと、子供が学校で話したら先生から「そういうことはするな」とその家庭に指導が入ったというくらい、ムスリムがクリスマスを祝うことは「欧米かぶれ」と見なされていました。
 最近ではそれも随分とゆるく、どう見てもキリスト教徒(イランではほとんどがアルメニア正教徒ですが)ではない人たちがクリスマスの飾りを嬉々として飾り付けているのを見ると不思議な感じです。

 飾り付けといい、いわゆるクリスマス(12月25日)に合わせて飾り付けるところといい、決して国内にいるアルメニア正教徒たちに合わせてではなく、カトリックやプロテスタントのクリスマスに合わせているのだなあということが明らかです。
 あるアルメニア人は、「彼らは単に欧米の文明に憧れているだけで、キリスト教徒に敬意を払っている訳じゃない」と、最近のムスリムのこうした風潮を冷ややかに見ていると教えてくれました。確かに、これまで有形無形のいじめを受けてきた側としては複雑かもしれません。

 宗教に関してかなりいい加減な日本から来たので、ムスリムがクリスマス飾りをしたっていいじゃん?と思ってしまう私はまだまだ認識が甘かったようです。

 でも正直なところ、殉教者の肖像ばかりを飾るよりも、このくらい明るい雰囲気の方がいいんじゃないかな、と思うのですが。

 とりあえず、近所のショッピングモールのクリスマス飾りからです。

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 それにしても、来学期は、1年生に日本に関する基礎知識を教える授業を担当しなくてはならないのですが、日本における宗教の問題をどうやって教えたら良いものか、今から頭が痛い思いです。

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2007年 12月 17日 |
 学生たちと話していると時々、あまりに自信満々で、不思議に思う、というか感心してしまうことがあります。

 「私が留学生試験に合格しないわけがない」
 「私がスピーチコンテストで優勝できないのは、審査員が優勝者にひいきをしたからだ」
 「私の試験の結果がこんなに悪いはずがない。十分な試験勉強ができれば満点だった」
 「試験ができなかったのは問題が難しかったからではなく、時間が足りなかったからだ」

 おもわずくらりと目眩がしてしまいます。

 あのね、あなたより能力のある人はきっと沢山いると思うよ。
 感情的なひいきではなくて、アピールできるだけのものがなかっただけだと思うよ。
 あなたはいつもそう言うけど、いつになったら十分な試験勉強ができるのだろうと思うよ。
 時間が足りないということは、あなたにとって難しかったということだと思うよ。

 と言ってみたいのですが、言うとまた言い訳があれこれ続くのは分かっているのでついついやめてしまいます。

 もちろん、自信がないよりはあった方が良いこともありますし、一概に自信を持つことを否定はしません。日本人の自虐的なまでの自信のなさに比べれば、良いところではないかと思うこともあります。
 しかし、客観的・冷静な自分の能力レベルへの判断無しに自信だけ持たれても困るよなあというのも事実であったりします。

 「どうして大使館にあの人を推薦したんですか!? あの人よりも私の方がずっと日本語は上手いし、能力があります!!!」
 などと怒鳴り込まれても、こちらとしては、「それを全部日本語で言えたら能力を認めてあげても良いけど、でも日本語では言えないんでしょ?それに、そういうことを言いに来るような人はやっぱり、日本企業や大使館には紹介できないよ」と思うのですが、本人だけがそうは思っていないので困ります。
 じゃあ、ということで、客観的評価のために試験をしてその結果で、と試験をすると、今度は「今回の試験の結果は私の本当の実力ではありません」となります。

 はじめの頃は、仕事を手にするため、点数を上げてもらうためにはそう言わなければならないんだろうなあ、などと思っていたのですが、どうもそうではなくて、本当にそう信じているらしいということが分かってきてびっくりです。

 イランの子供、特に都市部の子供は家の中では王様です。
「あなたはかわいい」「あなたは優秀」「あなたはすばらしい」とちやほやされて育ちます。
 その結果、なんだか自信満々な子供になるということがあるようです。もちろんそれだけではないのでしょうが。

 でも、そんな風に甘やかしているようでいて、しつけという面ではちゃんとしているところが感心するところで、良いことは良い、悪いことは悪いとちゃんと親をはじめとする周囲の人が注意しています。
 日本のように、萎縮させ、自信をなくさせるような叱りつけ方に比べれば、イラン式の方が良いような気はするのですが、しかし、やはりどちらにしても程度というものがあるのかも、という感じがしないでもありません。

 これから始まる試験シーズンのことを考えると、今からちょっと頭が痛かったりするのでした。

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by sarasayajp | 2007-12-17 12:28 | イラン人 |
2007年 12月 10日 |
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 あるアフガン人家庭におじゃますると、「にゃあ」と子猫が出迎えてくれました。
 決して人懐っこいわけではありませんでしたが、毛並みもきれいでふかふかで、家族からかわいがられているのは分かりました。

 この子猫を見ていて思いだしたことがあります。イランに来てすぐにテヘラン大学の寮にいた頃のことと、友人・知人を訪ねていったあちこちの寮でのことです。

 大学の寮というのはどこでも、不思議と猫が多く住み着いています。
 出産シーズンになると子猫が寮内をうろうろしていることもあったりします。
 ほんの小さな子猫です。人間に何かができるわけありません。
 ところが、女の子たちは「きゃあ」と悲鳴を上げて子猫から逃げ出してみせるのです。
 初めてこの光景を目にしたときには「はあああああ?」とあっけにとられてしまいましたが、これが一人二人ではないというのが次第に分かってきました。この「子猫を怖がってみせる」というのがイランで一番びっくりしたことの一つでした。なぜ「みせる」なのかというと、本当に心の底から怖がっているのか、そうすることで何かをアピールしようとしているのかよく分からなかったからです。

 イラン人の友人などにこの疑問をぶつけてみたところ、「あなただって、スースク(ゴキブリ)を見れば飛び上がるでしょ」という意味のことを言われて終わりでした。言いたいことは良く分かったのですが、ゴキブリと猫を同列に扱われたことにびっくりして、それ以上突っ込めなかったのでした。

 「しっっしっっ」と追い払いながらも、それでも、寮内の猫を駆除しよう、という動きにはならず、何となくお互いに距離を取りながらそれなりに過ごしているところがイランらしいところかもと思うのでした。

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by sarasayajp | 2007-12-10 15:34 | いろいろ |
2007年 11月 24日 |
 昨日は、早めに片付けなくてはならない仕事がありながらも、何となく気分が乗らない日でした。集中できないまま、調べ物ついでにあれこれ見ていたあるページで見つけたジョークに笑ってしまいました。

「国際会議で最も難しいのは、いかにして日本人に喋らせるかと、またインド人をいかにして黙らせるかである」


 このインド人をイラン人に替えてもいいなあと。

 イランの人にこちらの用件を伝えるのはなかなか大変なときがあります。
 察しの良い人たちが多いので、こちらがもたもたと用件を話しているうちに、「分かって」しまうらしく、こちらの話が終わる前にぺらぺらっと返事を始めてしまうのです。もちろん、それで助かることの方が圧倒的に多いのですが、その「分かってしまった」内容が実はこちらの意図とは違っていたという場合は大変です。
 こちらが、「いや、そうではなくてですね」と言ってもなかなか切り替えができない人が意外といるのです。
 「だからこうなんでしょ」
 「あ、だからそうではなくてこういう…」
 「だから、こうだって言っているじゃない」
 「あ~そうじゃなくて、これがこういうことで…」
 「だから、こういうことなんでしょ!!」
 「あ~~~、お願いですから、話を最後まで聞いてください」

 ここに、「何々?」と援軍が加わってくるともう大変です。すったもんだとやりとりをした挙げ句に、「もっと早く言いなさいよ」と言われてしまったりします。「言ってるって…」というこちらのぼやきは日本語にとどめておかなくてはいけません。

 雄弁とか能弁というのが会話や演説のテクニックとして確立しているからでしょうか。あるいはそういう環境で子供の頃から育つからなのでしょうか。とにかくこちらの人はよく喋ります。(もちろん無口な人もいますが)大した話題でもないのによくこれだけ話が続くよなあと、思わず感心してしまうくらいです。友人などと話しているときに、「どうして話さないの?」と言われることがありますが、口を挟むどころではありません。

 ということで、イランに来て大分話すようになったとはいえ、私なんて、こちらの人に比べたら、まだまだ「無口な日本人」だなあと脱力してしまうばかりです。

 そういえば、「沈黙は金なり」にあたることわざがペルシア語にもあるそうなのですが、こちらでは、しゃべり倒した方が得なのかも?という感じがするなあともちょっと思ってしまうのでした。


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by sarasayajp | 2007-11-24 20:57 | イラン人 |
2007年 11月 10日 |
 この週末は、寝込んでいた間にできなかった仕事を片付けよう!と決意をしていたのですが、気がついたらひたすら寝ているだけの週末となってしまっていました。溜まる一方の仕事に、これはちょっとまずいのでは、とは思うのですが、身体の方がなかなかいうことを聞いてくれません。年をとるというのは無理がきかなくなるということなんだなあとしみじみ感じてしまう今日この頃です。

 溜まっていく一方の仕事というのはほとんどが翻訳の仕事なのですが、ジャンルが様々な上に、ペルシア語→日本語だったり、日本語→ペルシア語だったりで、ちょっとくらくらしています。

 こんな風に翻訳を引き受けていて、それから大学で色々な人と話をしていてちょっと不思議に思うことがあります。
 自分の研究対象とする国の言葉も知らずに研究をしている、あるいはしようとしている人が意外と多いということです。

 日本の経済、教育、建築、言語学等々ジャンルは様々ですが、「英語を使えば十分研究できるから」と日本語を勉強する気はないという人が、どうしても使わざるを得なくなったからと日本語の資料や論文の翻訳を持ち込んでくるのです。
 確かに、日本関係の研究をするのに日本語は絶対に必要ではないかもしれませんが、少しくらい勉強しておいた方が良いんじゃないの?と思ってしまう私の方がおかしいのでしょうか。

 「翻訳ソフトもあるし、自分で勉強する必要なんてない」と言う人もいて、なんだかちょっと考えてしまったのでした。確かに日本語→英語なら翻訳ソフトも沢山ありますし、ネット上でも翻訳サイトはあります。しかしそれにだけ頼っていて本当にいいの?という感じもするのですがどうなのでしょう。

 言葉の翻訳や置き換え、定義などちょっとしたところで厳しい突っ込みを入れられてしまう人文系の学会や研究会を体験していると、こういうおおらかな考え方というのはちょっとカルチャーショックであったりするのでした。

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by sarasayajp | 2007-11-10 18:31 | イラン人 |
2007年 11月 08日 |
 熱が平熱に近くなったと思ったら今度は頭痛に悩まされています。今年のインフルエンザはタチが悪そうです。

 それにしても、昨日はあちこちで、ACLの決勝戦の一試合目であるところのセパーハーン対浦和レッズのことをあれこれと言われ続けた一日でした。
 日本のチームが決勝戦に進んだのも初めてだそうですが、イランのチームが決勝戦に進んだのも初めてなのだそうですね。それでこんなに浮かれているのかあと、ちょっと納得してしまったのでした。
 それと、気がついたのですが、対戦相手が日本のチームというのがまた何となく嬉しいようなのです。もともとこちらが申し訳なく思うくらいの親日国だということもありますが、日本のチームが相手というのが何となく特別なようなのです。
 学生によると、イランと日本はアジアにおけるライバルなのだとか。(確か、韓国も日本のライバルだったような?)まあ、確かに、代表戦などではこれまでに色々とありましたし、そう言えるのかもしれません。

 しかしいくらサッカー好きの人が多い国とはいっても、街中でいきなり日本人(らしき人)に向かって、「セパーハーン!」とか、「2-0」(これは3-0,4-0,5-0とバリエーションがあるのですが、何故か「2-0」が多い)とか叫ぶのはやめて欲しいなあと思うのですが、イラン以外の国でもこういうことはよくあるのでしょうか。とりあえず私が日本人だから意味は分かりますが、単なる通りすがりのトルキャマン(日本だとトルクメンと言われていますね)だったら全く無意味な行為だろうにと思ってしまうのですが。

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by sarasayajp | 2007-11-08 20:49 | スポーツ |
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