イランという国で
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2005年 10月 31日 |
 日が落ちると急に寒くなるといういかにも高原乾燥地帯の気候にやられ、いつまでも風邪をひきずっています。週末にあちこち出かけたことも良くなかったと思うのですが、もうトシなのかね、とちょっとがっくりときています。
 更に追い打ちをかけたのが、歯磨きの失敗で歯根が炎症を起こしてしまったことでした。ものを噛めなくて、食事をする気にもなれず、ぐったりとしています。

 そんなこんなで本当ならゆっくりと休んでいたいのですが大学はそれを許してくれません。
 テヘラン大学の外国語学部は先生の欠席に対して非常に厳しく、授業を休講にした場合、必ず補習をすることを義務づけています。そのために教務課の職員が、授業が始まって30分以内に各教室をチェックして、きちんと授業を行っているかどうか確認しているという徹底ぶりです。
 私が通っていた文学部ではここまで徹底していませんでしたし、知り合いのいる政治学部ですと、一学期の半分くらいの授業が休講になる先生もいるそうですから不思議です。どうして同じ大学の中でこうも教務課の仕事に落差があるのだろうかと。

 どうやら学期途中での「中間試験」も義務づけられているようですし、なんだか高校みたいです。ゼミ授業もないですし、卒業論文もなし。入学から卒業までただ授業を受けて試験を受けているだけ。レポート作成すらほとんどなくて。

 まあそれがイランの大学なのですからそれに従うだけですが、学生と先生の健康のため、校舎だけは早く完成させて欲しいと思います。というか、せめて吹き抜け部分の天井と、一階部分の窓は早く入れて欲しいです。でないと、授業をする先生も、授業を受ける学生も、大学へ出てこれなくなること間違いなしですから。

 実際、補習を行うのは大変なのです。
 その授業に出ている学生全員が空いている時間を調整し、まだ建築途中でぎりぎりの数しかない教室を確保して、というのはなかなか至難の業です。そんなことなら、レポートの提出くらいで勘弁してくれないかなあと、ため息をつきつき大学へ出勤するのでした。
 話を聞くと、他の先生も、補習をするのが嫌で、多少具合が悪くとも授業を行っているとのこと。体調が悪い先生が良い授業を行えるとも思いませんし、もうちょっと考えてくれないかなあと思わずにいられないこの二週間なのでした。
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2005年 10月 30日 |
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 大家さんからの差し入れ。

 奥の大きな器はハリーム。説明が非常に難しいのですが、一種の重湯のようなものでしょうか。

 手前の小さな器の左はフェレニー。これも上手く説明できないのですが、卵の入らないカスタードのようなもの、でしょうか。

 手前の右はショウレ・ザルド。サフラン風味のライスプディング、というと一番近いような気がします。

 どれも、エフタール(断食明けの最初の食事)によく食べられるものなのですが、私にはこの三つを全部平らげるのはとても難しいのでした。
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2005年 10月 29日 |
 昨日はイランが勝手に決めた「世界ゴドス(Qods=エルサレムのアラビア語式の呼び方)の日」でした。
 イラン・イスラーム共和国建国の祖であるところのエマーム・ホメイニー師が、ラマダーン月の最後の金曜日をこの日にする、と定めたのだそうです。
 イランのごく普通の人たちにしてみたら「だから?」というような記念日なのですが、イスラーム政権にとってはとても大切な日らしいです。エルサレムがムスリムのものであることを思い、パレスチナの抑圧された哀れな民に同情し、エルサレムを取り戻すまで戦うという誓いを新たにするのだそうですが、それがイランとどう関係するのか、イラン人自身が疑問に思っているようにも思います。それ以前に国内でやることは沢山あるだろう?というのはよく聞く意見ですし、全くその通りではないかと思うのですがどうなのでしょう。
 大統領がイスラエルについて行ったという発言は、イランの国益よりも何よりも、政権が掲げる「イスラームの大儀」の方が大切だという宣言のようにも聞こえないでもありません。



 その「世界ゴドスの日」に私は、テヘラン州の北部の山の中にあるというナーセロッディーン・シャー(在位1846-96年)の宮殿へと出かけていました。
 この宮殿は、テヘランからカスピ海へと抜ける街道から枝分かれし、山の中へと分け入った突き当たりという、とんでもないところにありました。
「なんでこんなところに宮殿(正確には離宮か?)なんか作って、何をしていたんだろう?」
 と言った私に、同行したイラン人の知り合いは、
「ヒッチ(何にも)」
 と切り捨てていました。
 確かに、ナーセロッディーン・シャーの時代は、ロシアやイギリスなどに次々と利権を奪われ、領土は狭まりという具合で、「何もしなかった支配者」と言いたくなるのでしょう。


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 ナーセロッディーン・シャーの宮殿跡。現在文化財保護庁により修復中。


 宮殿からの帰り道、イラン国旗が掲げられた軽トラックやバネットが何台も通るので、何だろうと思ったところ、我々が通過してきた山の村々へ行って「世界ゴドスの日デモ行進」のためのサクラを連れてくるのだとのこと。
 政府は100万人規模のデモ行進をすると言っていましたが、自発的な参加者は少ないらしく、政府関連組織や省庁、大学などに動員をかけ、それでも足りなくて、テヘラン周辺の村から人を集めてきて100万人規模に見せかけているのだなあと改めて感じたのでした。
 これまでにも大学の友人などが、招集をかけられて持ちたくもないプラカードを持たされたと言っていたり、公務員が時間外手当をもらっているとか聞いていましたが、イランで行われている集会やデモ行進の参加者のうち、何割くらいが自発的に参加しているのだろうと興味を持ってしまったのでした。
 恐らく、日本を初めとする海外ではこのデモ行進・集会の様子が報道されていたと思いますが、かなりの割合でサクラが混じっており、テヘラン市民は無関心だったことは間違いありません。


「ナーセロッディーン・シャーにしても今の政府にしても、どのくらい国民のことを考えているのか分かったもんじゃないよ」
 だそうです。日本でも結局政治家の利権争いでしかないなあという場面にたびたび遭遇しますが、どの国でも政治というのは政治家のためのものなのかなと寂しさを感じないではいられませんでした。

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 町中に貼られていたポスター。
 「アメリカに死を」「イスラエルに死を」だそうです。
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2005年 10月 28日 |
 ラマダーン中のテヘランで増えるもの。

 昼間営業できないサンドイッチ屋などが営業する、クルーチェやホシュカール屋。

 どちらもイランのお菓子の一つなのですが、通年でよく見るクルーチェはともかくホシュカールの方はラマダーン月になると増えるような気がします。

 ホシュカールというのはこういうもの。

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 鉄板の上に、穴を開けた容器に入れた種を流す。
 メッシュ状になるように種を流す。

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 できあがったメッシュの皮を二つ折りにして、次の人の手元へ投げる!

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 あんを詰め、中身がはみ出ないように周囲を押して止める。
 中身は、砂糖、シナモン、カルダモン、その他何種類かのスパイス。

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 できあがり。

 初めて見た時は春巻きかと思い。期待したらとんでもなく甘く、びっくりしたことを覚えています。
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2005年 10月 27日 |
 イランに暮らしていてどうして?と思ったことの一つに、すぐにお金のことを訊かれるというものがあります。

「どうやって暮らしているの?」くらいならまだいいのですが、これが時に
「その仕事でいくらくらいもらっているの?」ときて、さらには
「家賃はいくらくらい払っているの?」となり、
「お父さんはいくらくらいもらっているの?」と聞かれることすらあります。

 イランに来たばかりの頃は、どうして初対面に近い人、あるいは初対面のタクシーの運転手にそんなことを訊かれなくてはいけないのかと、非常に戸惑い、不愉快に思ったものでした。
 答えたくないので黙っていると、こちらが答えるまで何度でも同じ質問を繰り返す人もいました。
「どうしてそんなことを訊くの?」と聞き返すと、
「どうして答えるのに問題があるんだ?」「興味があるから」と言い返されます。
「じゃあ、あなたはいくらくらいもらっているの?」と聞き返そうものなら、自分の生活がいかに苦しいかという革命イランにおける生活苦自慢が始まります。
 イランに来たばかりの私にとってはなかなか難行苦行でした。今は、「答えたくないな~」で終わりですが。

 もちろん、私が答えたくない、答える気がないということが分かったところで質問を引っ込めたり、変な質問をして申し訳なかったと言ってくれる人もいましたが、イランに来た当初のイラン人に対する印象は、「お金の話が好きなんだなー」だったくらい、お金のことを訊かれてばかりでした。
 考えてみたら、私がイランへ来た頃というのは、日本からの送金で一躍物持ちになった人や、日本から驚くほど多額のお金を持って帰ってきた人が多かった時期で、日本という国では一体いくらくらいお金が稼げるものなのか興味津々だったということもあったのでしょう。
 でも、そんなこんなで、私の中では何となく、イランではお互いの収入や支出を尋ねるのはごく当たり前の挨拶の一環なのだ、というふうに位置づけられてしまったのでした。


 ところで、先日、アンケート調査を手伝う機会がありました。
 アンケートの初めに、基本的な質問として、性別や年齢、家族構成を尋ねる欄があり、その中には家族の年収を書く欄もありました。

 その欄を見たかなりの人が、「どうしてこんなことを書かなくちゃいけないの?」と抵抗感を示しました。

 結局あなた達だって自分の懐を探られるのは嫌なんじゃん!と、分かった瞬間でした。

 ちなみに、自分がされて嫌なことは人にもしないようにしなさいというのは、イスラーム(もちろんイスラームに限らず)の道徳理念の中の一つだったはずだったはずだけどなあと、イスラーム・イランの倫理観を研究テーマにしている私はついついぼやいてしまったのでした。


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 エフタールのソフレ(食事のために床に敷く布やその上に並べられる食事も含む)。
 この日のメニューは、大麦のスープ。ゴルメ・サブズィー(ハーブのシチュー)。ゼレシュク・ポロウ・ヴァ・モルグ(スグリの実を振りかけたご飯とチキンの煮込み)。サラダとヨーグルト。
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by sarasayajp | 2005-10-27 11:42 | イラン人 |
2005年 10月 26日 |
 昨日の早朝、こぽこぽという水の音で目が覚めました。
 何事かと飛び起きたところ、シュファージュ(温水式暖房)に水が通る音でした。
 この数日、テヘランの早朝の気温は6~8度と大変に冷え込んでいたので、朝になって大家さんがボイラーを入れたのでしょう。寒さで目が覚めることがあったくらいなので、正直助かりました。

 大学も早く暖房が入ってくれると良いのですが、まだまだ工事中で、いつになるやら見当がつきません。
 開けた空間だからなのか、コンクリート造りであるからなのか、校舎の中は非常に寒く、先日も学生たちが、「凍りそう」とがたがた震えながら授業を受けていたくらいでした。大体、まだ窓が入っていないところも見られるので、吹きさらしの中で授業をしているようなものです。

 大体、授業中も工事をしているため、がーがー、がんがんと工事音がうるさく、授業にならないこともしばしばです。
 これだけ工期が遅れていたら、人員を増やすなりして完成させそうなものですが、イランはのんびりしたもので、こんな人数で大丈夫なのか?と思うような人数で、のんびりと工事を進めています。のんびりと丁寧な仕事をしているかというとそうでもなく、ペンキが大胆にはみ出して塗られていたり、天井のパネルがずれていたり、コンセントの差し込み口が一度使うとぱかりとはずれたり、なかなかイランらしいおおらかな作りの校舎ができあがりつつあります。そういえば、先日は男子トイレが詰まったと大騒ぎになっていました。

 何事にもマイペースというのがイランの良いところであり悪いところであり。何とも難しいところです。
 でも、学生や先生たちの健康のためにも、本格的な寒さがやってくる前に校舎を完成させて欲しいものだと思います。


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 エフタール(断食明けの食事)に欠かせないホルマー(デーツ)を軽トラックに乗せて流し売り。
「ホルマー。新鮮なホルマー」というスピーカーからの声に、今晩のホルマーを求める人が集まってくる。
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2005年 10月 25日 |
 今日はイラン暦アーバーン月の3日、イスラーム・ヒジュラ暦21日、西暦10月25日。

 今日は、シーア派初代イマーム・アリーの殉教日です。詳しくはこちらをどうぞ。

 イマーム・アリーは、結果的にムスリム共同体(ウンマ)がスンニー派とシーア派に分裂するきっかけを作った人物ですが、シーア派世界では預言者ムハンマド以上に尊敬を払われているのではないかと感ずるほど、彼と彼の息子、第三代目イマーム・フサインの英雄化が行われています。スンニー派の留学生の中には、「シーア派の人たちは、イマームをまるで神であるかのように扱っている。そんなことは許されていないはずなのに」と違和感を訴える人もいました。

 そういった現代の話はさておき、預言者ムハンマドが布教を始めた当初、ムスリム勢力が拡大することを恐れた人々がムスリムを弾圧し、何度もムスリム勢力と敵対勢力の間で戦闘が起こりました。そしてその戦闘の中で、アリーが勇敢に戦い、何度も預言者軍を助けたことは事実であり、その勇敢さ故に彼は「ハイダル=獅子」という異名で呼ばれることもありました。
 彼はあくまで武人であり、拡大し、複雑化するムスリム共同体の運営という政治には向かない人であったのかもしれません。そのため、分裂していく共同体をまとめられず、暗殺されてしまったのでした。


 数年前、まだアメリカがイラクに侵攻する前のラマダーン月のことでした。
 私が時々足を運ぶテヘラン市内の聖者廟に、一枚のポスターが貼られていました。読んでみると、その聖者廟で殉教者を埋葬する式典が行われるというものでした。
 その年は、何体もの遺体がイラクから帰ってきて、その中には認識票もなく、名前も分からない遺体が何体もあったとのこと。そうした無名戦士の遺体を、テヘラン市内にあるいくつかの聖者廟で埋葬することになったのだそうです。私が通っていた聖者廟にも、五体の遺体の埋葬が割り当てられていたのです。
 そのようにしてイランに帰ってきた遺体の埋葬式が、イマーム・アリーの殉教日に合わせて執り行われたのでした。

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 埋葬式の告知ポスター。

 この埋葬式に関わる責任者たちにお願いをして、写真撮影の許可をもらい、埋葬式の端っこに加えてもらいました。

埋葬式の様子についてはこちら
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2005年 10月 24日 |
 ラマダーンもそろそろ終盤にさしかかろうとしています。

 ラマダーン月の断食は、10才以下の子ども(国や法学派によって少し違いがあり、14才まではしなくて良いという考え方も多い)、病人、旅行者、妊婦、授乳中の女性、月経や産後で出血のあるもの、高齢者、精神病を患っているものを除いた全ムスリムが行うべきものです。

 しかし実際には、色々と理由をつけて、自分が上の条件に当てはまっているから断食をしない、という人もいます。
 例えば、町の外へ出かけることを「旅に出ているから」と言い、昼食をしっかり食べたりすることなどはよく行われていますし、お金持ちのムスリムはこの時期になると大挙して海外への旅行者となるそうです。

 そんな風に、自分が住む町から移動することは「旅」として認識されている以上、町と町を結ぶ街道沿いに設けられたドライブインやレストランの中には、旅人のために昼食を用意しているところもあります。もちろん全ての食堂やレストランが昼食を用意しているわけではなく、ごく一部に過ぎませんが、このごろでは、町の中でもこっそり営業している食堂があるそうですから驚きです。
 外国人が泊まるようなホテルではロビーのラウンジは閉めてもレストランは営業しているというところも多いのですが、ホテルによっては「宿泊客以外の食事はお断り」と張り紙を出して、断食を守らない人が入り込むことを禁ずるところもあったりします。それどころか、外国人客がいるにもかかわらず、ホテル内のレストランを完全に閉めてしまうところもあるのですから、これまた驚きです。

 断食をするかしないか、それを人にも強制するかしないか、考え方は色々のようです。

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 これは、テヘランとカスピ海地方を結ぶ街道沿いにあるレストランの一つ。食事をする人が外から見えないように、新聞で目張りがしてある。週末の昼食時でも普段ほど混まないが、それでもやはり食事をする人の姿がちらほら。


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 これは近所の人からの差し入れのアーシェ・レシュテ(イラン風麺入りスープ)。イランのエフタール(断食明けの食事)の定番の一つ。
 刻んだハーブと豆類をスープで煮込み、短く切った麺を入れてあるもの。上にかかっているのは、炒め玉葱、ミントを油で煮立てたものとキャシュク(乳製品の一種でブルーチーズのような独特の味と匂いがあるもの)。
 海外にいるイラン人に、「イランに帰ってまず食べたいものは?」と訊くと、かなりの割合でこれを食べたいという返答がかえってくる。イランの家庭の味の代表らしい。
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2005年 10月 23日 |
 昨晩は、イスラーム・ヒジュラ暦ラマダーン月18日、最初のシャベ・ガドゥル(アラビア語ではライラトゥル・カドゥル)でした。

 詳しい話は、昨年の説明をお読み下さい。

 中東では伝統的には、日没によって日付が変わるので、18日の日没以降は19日になります。そのため、昨夜は18日でしたが「ラマダーン月後半の奇数日」にあたるわけです。

 シャベ・ガドゥルの夜に徹夜で詠まれるドアーについては昨年説明していますが、ムスリムの名前には、アッラーの99の異名から取られているものが多くあります。
 私の友人の友人の話ですが、「ジョウシャン・キャビールのドアーを詠んでいると、知り合いの名前があったりして、ついつい笑ってしまうのよね~」だそうです。普段、ろくでもないことばかりしている人の名前が、神の異名として、そしてそれを詠む人を悪から守るものとして現れたら、確かに笑ってしまうのかもしれません。

 こういう人もいますが、ドアーを詠む集いに参加している人は、現世で悪に染まらぬよう、来世において幸福であるようにと真剣です。

 しかし、シーア派イスラーム政権イランにおいては、何よりもイマームたちへの哀悼行事が大切で、この真剣な行事にまでイマームたちへの哀悼(アザーダーリー)を持ち込み、信者を戸惑わせることがあります。

 一昨年のことですが、あるジョウシャン・キャビールのドアーの集いに参加していた時のことです。

 ジョウシャン・キャビールのドアーは最初から最後まで全部を詠むと長くかかるので、所々で休憩のように、ドアーを休み、読み手による説教が挟まります。
 この時は、ちょうど真ん中あたりで説教が始まりました。
 はじめはムスリムとしてあるべき生き方のような説教だったのですが、説教がなんだか妙な熱を帯び、気がつくと、イマーム・フサインの殉教の悲劇語り(ロウゼ)にすり替わっていました。これは、シャベ・ガドゥルの夜ではなく、アーシュラーの時に行うべき悲劇語りです。シャベ・ガドゥルとは全く違う行事です。
 ドアーの集いに参加していた女性たちは「?????」と思いながらも、読み手の指示に従って、涙を流したり、胸を叩いたりしてイマーム・フサインへの哀悼の意を表していました。その時点ではみんな、悲劇語りが終わったらドアーが再開されるだろうと思っていました。
 しかし、なんと、悲劇語りが終わると同時に、ドアーの集いも終わってしまったのです。
 女性たちはまずいぶかしみ、本当にドアーの集いが終わってしまったことを知り、怒り始めました。
「ジョウシャン・キャビールのドアーを最後まで詠まないでどうするの!?」
「どうしてドアーを詠まないで、アザーダーリーをしなくちゃいけないの!?」
「神様は最後まで詠むことができなかった私たちを許してくれるかしら?」

 悪から身を守ってくれるジョウシャン・キャビール(大鎧)のドアーを半分しか詠まなかったということは、鎧が半分しか身に纏うことができなかったということで、出席者が不安に思うのももっともです。いくらシーア派政権だからといって、これはちょっとあんまりです。イマームたちの死を悼む時は悼む時、ジョウシャン・キャビールのドアーを詠む時は詠む時で、きちんと区別すべきだと思うのですが。祝祭日のほとんどがイマームとその関係者の殉教日であるイランでは、イマームたちの死を悼む機会には事欠かないのですから、シャベ・ガドゥルくらいはたとえロウゼをはさんだとしても、ジョウシャン・キャビールのドアーを最後まで詠むべきじゃないのかなあと、非常に疑問に思ったのでした。

 出席者たちの怒りが主宰者に届いたのか、二回目のシャベ・ガドゥルの集いでは、ちゃんと最後までジョウシャン・キャビールのドアーを詠むことができたのでした。


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 シャベ・ガドゥルに際しての大家さんからの差し入れのハルヴァー。
 イランの菓子の例に漏れず、甘くて油っぽいので一皿完食するのは大変。でも、祈りの気持ちが込められたものなので、できるだけ食べるように努力。
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2005年 10月 22日 |
 またまた子どもの写真から。

 昨日の女の子の従兄弟です。

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 彼を見ていると、押し入れに潜り込んでは叱られていた自分を思い出します。
 どうして子どもって、狭い場所に潜り込むのが好きなんでしょうね。
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by sarasayajp | 2005-10-22 13:35 | いろいろ |
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