イランという国で
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2005年 09月 29日 |
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 果物がおいしいのだけど高い日本と違って、イランの果物は見かけはそれほど良くないがおいしくて安いというのが嬉しいです。

 日本でよく売られている白桃もおいしいのですが、写真のようなイランのちょっと平たくつぶれたような形の桃は独特な甘みがあって、大好きです。

 こんなおいしいものを1キログラム買っても日本円で200円するかしないかだというのは、果物好きにはとても嬉しいところです。
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2005年 09月 28日 |
 イランで仕事をすることになりました、と言うと、「生活できるだけの給料は出るんですか?」という反応がよく返ってきます。
 はっきり言ってできません。

 テヘラン大学の規定によると、なんでも、一年目は非常勤講師として教えることとなっているのだとか。正式に採用されるのは二年目からなのだそうです。もちろん、有力者のコネなどで採用された場合はこの限りではないようですが、私はごく普通のルートで採用が決まったので、これから一年間は非常勤講師です。

 で、非常勤講師の時給が、なんと、約2万8千リヤールなのだそうです。授業一コマを二時間と計算しますから、一コマ5万6千リヤールです。
 私は週に四コマ授業を持っていますから、週22万4千リヤール。一ヶ月で89万6千リヤールです。アパートの家賃にもなりません。
 更には、他の先生方の証言によると、非常勤講師の給料の支払いが一年くらい遅れることは当たり前だそうで、給料はもらえると思わない方が良いよという忠告まで受けてしまいました。日本のある教授が、「非常勤なんてボランティアですよ」と仰っていましたが、もしかしたらそんな感じなのかもと思わずにいられない情況のようです。

 非常勤講師の給料が低いのはイランに限ったことではないので、まあ、こんなものかな、とは思っていますが、バイトもしなければ生活できないことは確かで、そこがちょっと頭の痛いところです。

 ということで、イランで通訳・コーディネーターを必要とされている方は、いつでも声をかけてください。誠心誠意努めさせていただきます。

 というのは半分本気で半分冗談ですが、日本でもイランでも、大学院生が増え、博士号取得者が増加した結果、博士号を持っていてもなかなか就職できないという状況があることは事実です。
 イランでは30才以下の若者が人口の半分くらいを占める国であり、大学の数を大変な勢いで増やしていることもあって、大学でポストを得ることができますが、若年人口が減少する一方の日本では大学で職を得るのはかなり難しい情況です。国の機関や民間企業でも、コネが何よりも優先するイランでは、実力があっても職を得ることができないという人も多く見られます。また日本では、理工系はともかく、人文系の修士号や博士号はかえって企業などに嫌われる原因となるそうです。何のために大学院改革とかいって大学院生を増やしたのか分かりません。

 イランはもともと教育熱心な国だったそうですし、100年以上続く学者の家系などという大学教授も沢山いるような国です。そうした土壌に加えて、高学歴を得ることで可能性を増やそうという人も多く、その進学熱はものすごいです。それと、官公庁で働きながら大学院で学ぶという人も多く見られます。これは、官公庁にそういうシステムがあるからなのだそうで、働きながら専門的な知識を増やすことに役立っているのだそうです。
 その一方で、学問など必要ないという分野もあります。
 最近はどうか分かりませんが、イランのバーザール商人たちは自分の子どもに高学歴は必要ないと考えていたそうです。余計な勉強をするよりは、実地で商売を覚えるべきだというのだそうです。また、本当かどうか確認はできないのですが、最近男子の大学進学率が下がっている理由の一つが、大学を卒業しても働き口がないなら、早く商売でも覚えて、自活の道を手にしようという男の子がいるからという話も聞きます。
 お金を稼ぐという面で言えばそれも一理あるのかなと思う今日この頃です。
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2005年 09月 27日 |
 いよいよ土曜日から大学の授業も始まりました。
 先週の段階ではかなり不安な状態でしたが、さすがはイランです。何とかなってしまいました。

 校舎はまだまだ未完成なのですが、とりあえず必要な教室と各科の事務室だけを何とか整えて、トイレの水道を通し、無事(?)授業開始にこぎ着けたようです。

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 「外国語学部はこっち」という張り紙。これがないと、きっと授業が行われている校舎とは思われないに違いなし。

 しかし、まだまだ建築現場状態であるためハプニングも多いようで、ある先生の話によると、授業中に「引火物が爆発する危険があるので避難してください」と言われ、学生と一緒に校舎の外へ避難したとのこと。スリルも味わえるようです。

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 校舎の外観。窓が入っていないところも。

 トイレは何とかしたようですが、まだ水回りの整備が終わっていないため、イランのオフィスにつきもののお茶のサービスはまだなく、水のサーバーしかないというのがちょっと残念です。

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 校舎の中はこんな感じ。
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 こんな場所も随所に見られる。
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 でもとりあえず、授業ができるだけの教室は完成。このあたりはとってもイラン的。


 まだ一週目が始まったばかりなので、学生も全員は集まっておらず、授業も本格的には始まっていませんが、さて、どんな授業になるのでしょうか。ちょっと緊張しています。

 日本でも各外国語学科では女の子の方が多く勉強していた印象でしたが、イランでもそれは変わらないようです。私が担当しているクラスは、17人と18人中、男の子は二人ずつしかいません。学年によってカラーが違うようですが、それでもやはり女の子が多いというのはそれだけでにぎやかな感じです。
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2005年 09月 24日 |
 イランでは今日から新学期です。木曜日からは冬時間になり、秋が始まることを知らせています。

 イランでは、小学校5年、中学校3年、高校3年、大学進学者のための予備コースが1年、大学は4年(医学部は5年)という学校制度で、小学校のみが義務教育です。
 就学率の正確な統計は手元にないのですが、バルーチェスターンなど、女に教育は必要ないと考える部族的慣習の強い一部地域を除けば、男女の区別なくほとんどの子どもが小学校へ通っています。

 小学校がないごく小さな村の場合でも、近くの村の小学校へスクールバスを出して通ったり、親戚や知人の家にホームステイをして学校へ通ったりと、親や行政は子どもたちに教育を与えるべく努力しているようです。

 行政の努力として私が一番おもしろいと思うのが、遊牧民の子どものためのテントの学校です。


 ファールス州など、遊牧民が多い地域を走っていると、遊牧民の黒い天幕の中に、イラン国旗を立てたとんがり屋根の白いテントが見えることがあります。これが遊牧民のテントの学校です。

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 1979年の革命以前、イランの遊牧民は為政者にとって頭痛の種の一つでした。彼らは概して非常に勇敢で、為政者を恐れずに反抗するため、時の支配者たちは遊牧民と親睦を結ばなければ国内が治まらないことすらありました。
 このため、前政権パフラヴィー朝は遊牧民の定住化を推し進めました。彼らを定住させることにより、経済的にも政治的にもコントロールできるであろうと考えたからです。この時代、政府の政策に従って、あるいは経済的な理由から定住する遊牧民もいましたが、遊牧を続けるものもまだ多かったそうです。

 革命後、イスラーム政権も前政権の政策を引き継ぎ、遊牧民に定住を勧めました。イスラーム政権の大きな政策の一つとして、全ての国民に教育を、というものがありました。これはこれまで教育を受けることができなかった人々にも教育を与えるという意味と共に、イスラーム政権の意味を理解できる子どもたちを作るという意味がありました。

 その政策に沿って、イスラーム共和国国民である遊牧民が定住しないのなら、国民の権利を放棄させないよう、先生の方を派遣するというユニークな政策が始まりました。

 遊牧民は、家族単位でグループを作って生活しています。いくつかの家族が一つのグループを作り、夏営地(イーラーグ)と冬営地(ゲシュラーグ)の間を移動するのです。
 イスラーム政権以前も、部族長のクラスになると町に屋敷を持ち、財力と権力を持つ有力者として暮らしていましたし、その子どもたちの中には大学へ進学する人もいました。しかし、普通の遊牧民は天幕と家畜を持って夏と冬に移動する生活を送っていたのです。当然、教育を受ける機会もありませんでした。

 イスラーム政権は、この移動する遊牧民のグループに、学校用のテントと先生を送り込んだのです。
 小学校への就学年齢の子ども10~15人に一人の先生と一つの学校テント。そして教材。先生によっては、近くの町に住み、毎朝テントへバイクで通ってくるという人もいますが、町から離れた遊牧地に天幕を張っているグループの許へ派遣された先生は、24時間子どもたちと一緒に過ごすことになります。自然、先生と子どもたちの間には密接な関係が生まれます。

 初めのうちは、都市から先生が送られていましたが、現在では、テントの学校を卒業し、町の師範学校を卒業して小学校の先生となり、自分の出身部族のテントへ先生として戻ってくる人も出てきています。

 遊牧民の先生はほとんどが男性ですが、イラン南部にいるガシュガイ族の学校テントの中には、ガシュガイ族出身の女性の先生もいます。
 遊牧民の子どもたちに、将来どんな職業に就きたいか尋ねると、「学校の先生」という答えが多く返ってきます。遊牧民出身ということで有形無形の差別があって町での仕事に就きにくいけど、学校の先生ならがんばればなれるから、だそうです。

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 ここでは子どもの数が多いのか、テントが二張り。

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 テントの前に生徒が整列して記念写真。

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 テントの中で勉強中。カメラを向けられてみんな緊張してしまった。
 少人数制なので、基本的に男女共学で全学年一緒の複式授業。

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 テントの中よりも外の方が快適なので、外で授業をすることも。
 教科書とノートを持って、学年毎にまとまって勉強中。

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 ここでは男の子だけで固まって勉強中。


 イスラーム政権による国民皆教育への熱意は、たとえそれがイスラーム政権安定のための一種のプロパガンダが目的だとしても、評価できるものではないかと思います。
 子どもたちは国語であるペルシア語の読み書きと、算数などの基礎教育を受けることで、可能性を手に入れることができるようになるのですから。
 ある日本人学者は「所詮経済が目的で勉強するんだから」という言い方をしますが、イラン経済に参加できないよりは参加できた方がいいんじゃないのかなと思うのですがどうなのでしょう。
 ともかく、テントの中で、あるいは外で楽しそうに勉強している彼らの姿を見ていると、彼らの将来に幸あれと祈らずにいられません。
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2005年 09月 23日 |
 昨日は調査のためにテヘラン市の外へ出ていました。
 調査を終えた帰り道に、テヘラン市の北東部のはずれにある聖者廟に寄りました。

 現在のテヘラン市は、以前に地図付きでご紹介したバーザール地区を中心に、18-19世紀に作られた町が基礎となっています。
 テヘラン市の北にはいくつかの村が点在し、そうした村には国王の夏の離宮や金持ちの別荘があったそうです。

 18世紀以後、イランの首都として発達し、人口も増え、特に1979年のイスラーム革命前後から爆発的に人口が増えた町は、どんどんと北に向かって伸び、それまでにあった村々をテヘラン市に吸収して膨張しました。
 それまでにあった村と村をつなぐようにして膨張した結果、都市計画とは全く無縁な現在のテヘラン市ができあがってしまいました。
 今でも、テヘラン北部のいくつかの地区には、以前村だった面影が残り、不思議な雰囲気を作り出しています。

 私が昨日立ち寄った聖者廟の周辺も、以前村だった当時の面影を残しつつ、新たな住宅の建設ラッシュに巻き込まれ、不思議な景観を作り出しています。

 下の写真は廟のすぐ近くの様子。何となく村の雰囲気が残っている。

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 こちらは廟からテヘランを見下ろした様子。果てしなく町が広がっているのが分かる。

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 こちらは廟から背後の山を見上げた様子。山の斜面に張り付くようにして住宅の建設が進んでいる。
 テヘランは北から南に向かって斜面が広がっているが、南をパーイーン・シャフル(下町)、北をバーラー・シャフル(上町)と呼ぶ。おおざっぱに言うと、パーイーン・シャフルは古い町で比較的低所得層が住む場所で、バーラー・シャフルは新しい町で金持ちが住む場所という認識。もちろん、色々な条件があるので必ずしもこういう分類では言い切れないのだが。
 ついでに、北の方向へ行くことを「上る」、南の方向へ行くことを「下る」と言う。そのものずばり。

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 木曜日ということもあって、景色の良いこの聖者廟には、参詣者の他にもデートのカップルが多く訪れていた。
 テヘランでも一番高い場所にあるので、夏でも涼しく、また景色も良いので、デートに来る人も多いとのこと。
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2005年 09月 22日 |
 このところ、「外国語を学ぶこと」と「学んだ外国語を使うこと」について色々と考えさせられることが続きました。

 イランに割と長く住んでいるためか、日本人イラン人両方から、「ペルシア語を使える仕事はないでしょうか?」「日本語を使う仕事はないだろうか?」と相談を受けることがあります。
 実はこうした相談が一番困るのです。
 「ペルシア語を使ってこういう仕事がしたいです」とか、「こういうことができるのですが、それに関連した仕事はないでしょうか?」というのならまだ相談の乗りようがあるのですが、言葉を使った仕事、というのは通訳くらいしか紹介できません。

 もちろん、最初から自分に合った仕事、自分がやりたい仕事、自分にできる仕事がはっきりしている人ばかりではないでしょう。それでも、ある程度の方向性がないと、就職した後で辛いのは本人ではないかと思うのです。日本の企業や大使館で働けるなら、あるいはイランに住むためならどんな仕事でも構わない、という人もいるでしょうが。

 これまでに何人かの日本人から聞いた話です。
 日本語学科の卒業生に日本企業あるいは大使館の仕事を紹介しても、自分に何ができるのかということを考えず、「雑用など(あるいはお茶くみなど)は、自分の仕事ではありませんから、そんなことをさせられるのならこんなところでは働きません」と言う人が多いことは事実です。雇用する側にしてみれば、「日本語を話せる」ということが一番の特技である人に、そんなことを言われてどう思うでしょうか?また、日本語を勉強していながら日本の文化(お茶くみをそう言って良いかどうかは疑問ですが)を理解しようとしない姿勢を見せられて、その人を雇おうと思えるでしょうか?
 日本語を学んだイラン人をなかなか雇おうとしない日本企業にも不満はありますが、例えば、日本語の他に英語も話せる、コンピューターを一通り扱うことができる、事務や営業の能力がある、あるいは技師としての十分な能力があるといったアピールができるだけの努力もせずに、大卒の資格があり、日本語を話せるということであらゆることができるかのような気分になっている人が残念ながら目につくことも確かです。
 日本とはまた違った学歴社会、階層社会であるため、「高卒以下の人がする仕事」「高卒の人の仕事」「大卒の仕事」「修士・博士号を持つ人の仕事」が彼らの中であまりにはっきり線引きされているため仕方がないのかもしれませんが、仕事を得ることよりもプライドが優先するようです。もちろん、そうではない人も多いのですが、文句を言う人の方がその存在が目立つのです。

 昨日会った大学の教授はこのように嘆いていました。
 「外国語を勉強する学生は、『就職口がある』ということしか判断基準にしないのよ。その言葉を支えている文化なんて全然興味なし。言葉は道具の一つでしかないのに、それが全てだと考えているのよ。その言葉が使われている国の事情なんて全然知らない学生もいるわよ。というか、知る気もないのね」
 日本でも外国語を学ぶ時にそういう人はいますから、決してイランだけの問題ではないのでしょうし、言語そのものにだけ興味がある人もいるでしょう。

 例えば、日本でペルシア語を勉強したというある人の話です。
 この人は、とてもペルシア語が上手で、私は常々うらやましいなあなどと思っていました。しかし、しばらくして、彼女がイスラームについて全く関心がないということに気付きました。ペルシア語にはイスラームに関連した言葉が沢山ありますし、イスラームあるいはそれに関連した習慣を一通りでも分かっていないと理解が難しい言葉はいくつもあります。ところが、彼女はそうした言葉を辞書通りに置き換えているだけで、意味は理解していなかったのです。これでは通訳をしても翻訳をしても、また、イラン人とのつきあいも上っ面だけのものにしかならないことが出てきます。もったいない話です。

 日本でもイランでも、「仕事のために外国語を習得する」というにしても、言葉だけを覚えればそれで終わり、で終わって欲しくないなあと思います。イランの人は言語の習得能力が高いだけに、なんとももったいないなあと思うのです。
 
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by sarasayajp | 2005-09-22 12:11 | いろいろ |
2005年 09月 21日 |
 イランに戻ってからばたばたとしていましたが、昨日でそれもようやく一段落しました。

 そこで、これから一年間の仕事場となるはずのテヘラン大学外国語学部へと行ってきました。
 本当は先週、新学期前の学科会議があったそうなのですが連絡の行き違いで出席できなかったため、今日が今学期初めての学部訪問でした。

 テヘラン大学外国語学部は、これまで校舎がなく、経営学部の校舎を間借りして授業を行ってきていましたが、この学期からようやく自前の校舎で授業ができるようになった、と聞いていました。
 まだ授業は始まっていないので、校舎の下見と授業で使うテキストをもらえたらと思い、足を運んだのですが、「さすがはイラン!!!」と、エクスクラメーションマークをいくつも並べたくなるような訪問となりました。

 まず、校舎がどこにあるかよく分かりません。

 テヘラン大学の寮の前と聞いていたのですが、よくわからないため、体育学部の入り口に立っていた警備員に「あの~、外国語学部の校舎はどこにあるんでしょうか?」と尋ねたところ、またか、という顔をされてしまいました。
「もうちょっと先に、警備員が座っているところがあるから、そこから入って」

 ということなので、指示された方へ行ってみると確かに警備員が座っています。念のため、外国語学部はここなのかと尋ねたところ、そうだよ、と、その奥の建物を指しました。
 しかし、その建物はどう見ても工事中です。しかし、その建物に向かって「外国語学部はこっち」と進行方向を指示した紙が貼られています。

 カメラを持っていかなかったので、その様子をお伝えできないのが残念ですが、外壁はまだできていない。窓が入っていない。壁は下の煉瓦が剥き出し。天井はパネルもまだ入っておらず、蛍光灯が入っていないところもほとんど。水道もまだ来ておらず、トイレは使えない。
 どう見ても、何日か前から学生の授業登録が始まった大学の風景には見えません。単なる工事現場です。学部事務室もまだ機能していません。来週から授業が始まるそうなのですが、あと三日で劇的に完成するとは思えない情況に、充満するシンナー臭も相まって、思わず頭が痛くなってしまいました。

 同僚となる先生に、「校舎ができてから引っ越しをするっていうのは駄目だったんですかねえ」と言ったところ、「そんなことをしたら、何年経っても校舎なんてできないでしょうね」と言われてしまいました。確かにそれも一理あります。強引にでも引っ越して、授業を始めてプレッシャーをかけようというのでしょう。もっとも、それを工事現場で働く労働者がプレッシャーと感じるかどうかは何とも言えないところですけど。

 結局、テキストをもらうどころではなく、来週からどうやって授業をやったらいいのか、悩みが一つ増えてしまったのでした。
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by sarasayajp | 2005-09-21 17:38 | いろいろ |
2005年 09月 20日 |
 昨日の日没からこちらではシーア派12代目イマーム・マフディーの誕生日です。

 マフディーとは「導かれた者」を意味し、メシア(救世主)のことです。
マフディーはこの世が穢れに満ちた日に降臨し、あらゆる悪を浄め、真のイスラーム共同体を築く存在であるとされています。

 12イマーム・シーア派では、12人目のイマーム・ムハンマドが西暦874年に、お隠れ(ガイバ、ペルシア語ではゲイバト)になり、マフディーとしてこの世に再び降臨する日を待っていると考えられています。

 イランでは、マフディーは木曜日に降臨すると言われており、熱心な信者たちは木曜日毎に集会を開き、ドアー(祈りの言葉)を唱えながら、マフディーの降臨を待ちます。

 お隠れになっている12代目イマーム・マフディーの誕生日が、ニーメ・シャアバアーン(シャアバーン月の半分)とも呼ばれる今日この日で、誰それの殉教日、といった哀悼行事ばかりのシーア派では珍しくめでたい祝日です。
 人々は町中に電飾やきらきらとした飾り付けをし、夜の町へ繰り出して、マフディーがこの世に誕生した日を祝います。
 モスクや聖者廟、熱心な信者の家では食事を人々に配ることも行われます。

 ニーメ・シャアバアーンの夜のテヘランの様子をご紹介しましょう。

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 近所のモスクで配られた食事をもらい、家へと帰る家族連れ。
 人々の寄付によって集められたお金や食材により、何百人分もの食事が作られ、配られる。こうした行為は大きな徳を積むことであると考えられ、来世のため、あるいは何か願い事を叶えてもらうために寄付行為が行われる。

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 病院も電飾。電飾は、イラン国旗カラーである赤、白、緑が基本。

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 エンゲラーブ広場の様子。
 イスラーム革命の中心地でもあるためもっと派手に電飾をしているかと思ったが、意外とおとなしめの飾り付け。

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 こちらは農業省。

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 こういう蛍光灯による電飾も。

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 こちらはテヘランの目抜き通りの一つ、ヴァリー・アスル通りにあるヴァリー・アスル広場。ヴァリー・アスルとは「時代の主」の意味で、マフディーを指す。
 偶然、何年か前のこの日に、同じ場所で写真を撮っていた。それが下の写真。奥の建物の壁面に大きく国旗カラーで「アッラー」と書かれている。

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2005年 09月 19日 |
 イランに戻ってから雑用が多く、ばたばたとした毎日が続いていました。

 先週、夜遅く家に戻り、メールのチェックをするためにネットへ接続しようとしたところ、モデムから妙なアナウンスが流れてきます。何事かと驚き、急ぎ電話のところへ駆けつけ受話器を取ったところ、「あなたは電話料金を払い込んでいないから、72時間後に電話を切ります。もし切られたくなかったら、至急、料金を払い込むように」との警告アナウンスでした。

 その前日に振り込みは行っていたので問題はないだろうと安心し、この問題を放っておいたところ、なんと、本当に72時間後に電話が切られてしまいました。

「料金を支払っていないからあなたの電話を切ったわよ。とりあえず、電話を受けることはできるけど、料金不払いを続けるならそれも72時間後には切るわよ」

 だそうです。とっくに振り込んであるのに。

 振り込み済みの用紙の半券を電話局へ持って行き、振り込みをしてあることを証明すれば半日から翌日には電話回線を開いてもらえるのですが、翌日は一日中外出しなければならない仕事が入っており、電話局へ行く時間を取れそうもありません。ところが、こういう時に限って、メールや電話を頻繁にやりとりしなければならない仕事が多いというのは不思議なものです。
 大家さん宅や下の階におじゃまして電話回線を貸してもらうこともできないでもないですが、一時間おきにメールのチェックをさせてもらうのも面倒だし、悪いし、困ってしまいます。

 電話局のこうしたミスが結構頻繁に起こるところが、何ともイランらしいところかもしれません。

 結局、電話が切れてから20時間後くらいに、割と近所に住む日本人留学生の家へ押しかけてメールのチェックをさせてもらい、仕事がようやく終わった36時間目に大急ぎで電話局へ駆けつけることができました。
 振り込み用紙の残り半券を見せたところ、「あら」と一言。ちゃかちゃかっとキーボードを叩いて電話番号を入力し、「はい、何時間後か分からないけど、今日中に開くから」。

 で、それから三時間後の今、ようやく電話が通じたのでした。もうそろそろダイヤルアップは卒業したいよ、と、しみじみ思った二日間でした。
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2005年 09月 16日 |
 イラン暦モルダード月16日、イスラーム・ヒジュラ暦ラジャブ月1日、西暦8月7日

 この日は12イマーム・シーア派第5代目イマーム・ムハンマド・バーキル(ペルシア語ではモハンマド・バーゲル)の誕生日ということになっているそうです。

 私の卓上カレンダーではそうなのですが、手元にある預言者やイマームについての簡単な伝記の冊子によると、サファル月の3日となっていて、どれが本当やら分かりません。

 実際、イマームに限らず、イランをはじめとするイスラーム世界では、誕生日に重きを置かないし特に記録もしていないため、誕生日が分からない歴史上の人物がほとんどです。死亡した日は墓石などの記録から分かるのですが。

 本人や周囲の人が書き残したものや、その他の傍証などから「きっとこの日だろう」という誕生日は推定されていますが、確実ではないことが多いです。

 現代イランでは、戸籍制度があり、誕生日が戸籍にちゃんと記されていますが、お年寄りなどは自分の誕生日がいつなのか知らないので適当に申告したということもあるそうです。インタビューなどしていると、どうも年齢がおかしいぞ、と気付くことがあります。

 イマームについてですが、他のイマームと違っているところもさしてないので割愛させていただきます。
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