イランという国で
sarasaya.exblog.jp
  ブログトップ
カテゴリ:イラン人( 115 )
|
|
2011年 12月 24日 |
 以前、私が持っている当局からの調査許可書を振りかざす運転手の話をしたことがあったと思います。
 似たような話はイランでも日本でもたくさんあると思います。
 自分に何か特別な力や立場があるわけではないのに、そうした力を持つ人や機関とつながりがあるというだけで、何かを勘違いしてしまうということは。

 特に、中央の権力が強く、許可書&警察国家であり、さらには外国人(より正確には自分の属するコミュニティーの外の人)排斥の気分が強いイランではそうした傾向が強く、閉口してしまうことがあります。

 先日、以前、調査に行った聖者廟を6年ぶりくらいに訪れました。
 様子がすっかり変わっているのでびっくりし、以前の様子と比べるべく、写真を撮ろうとしました。
 すると、背後から、「写真は禁止だ」と怒鳴りながら男性が近づいてきます。
 とりあえず、カメラを下ろし、自分の身分と目的を伝えたところ、「モジャッヴェズ(許可書)を持たない人間には写真は撮らせん」と偉そうに言います。
 まあ、けんかしても仕方ないし、と、「じゃあ、写真は結構です。でも、少しだけ話を聞かせてくれませんか?廟を立て替えているようですが、前の建物はいつ取り壊したんですか?それと、以前、調査でここを訪れた時には聞き損ねたんですが、どういう来歴があるのかお聞きしたいのですが」と切り出したところ、「話を聞きたいなら、許可書を持ってこい」とのこと。
 さすがにかちんと来てしまいました。
 私の周りでは、携帯電話のカメラなどで記念写真を撮っている家族連れなどもいます。彼らの写真撮影も禁止するのなら話は分かりますが、「外国人に対して強く出ている偉い自分」「許可書を要求することのできる強い立場の自分」に酔っているだけに見えてうんざりしてしまいました。

 何かというと禁止事項を増やし、規制をすることで立場の強さを示そうとしているように見えるイランの各種機関ですが、写真撮影について言えば、マスコミなどの規制に当たるイスラーム文化指導省によると、軍事施設等、撮影禁止となっている場所以外については、例えば、聖者廟やモスクの外観を取ることに特に規制もないとのことです。内部は許可が必要だそうですが。同じ事を、こうした宗教関連施設を管理しているワクフ慈善庁も言っています。

 これまでにも調査中にはいろいろなことがありましたが、今回の男性のように、話を聞くことにすら許可書を求めるというのは初めてです。
 こちらに許可書を求めるのなら、向こうにも、許可書の提示を要求することができる立場であることを証明する文書を見せてもらいたいなあと、ついつい思ってしまいます。必殺、許可書返し。一度言ってみたいものです。

 こういう人物に当たるのは、都市部に割と近い、都市に吸収されかかっているような農村に多いのですが、あまりの多さにうんざりしていた数年前、イスラーム文化指導省の外国プレス担当者に対し、「撮影禁止の場所以外の撮影は許可されている」という証明書を発行してほしいと言って笑われたことを思い出してしまいました。
 でも、考えてみたら、この数年は、許可書のおかげということもありますが、こういう人物に当たること自体が少なくなっていたのだなあとも、しみじみ思い返してしまった出来事だったのでした。
[PR]
by sarasayajp | 2011-12-24 04:47 | イラン人 |
2011年 04月 17日 |
 こちらに住んでいて感心することと呆れることの一つが、「根本的な解決をしない」ということです。

 光熱費などへの補助金がカットされ、ノウルーズ前に私の住んでいるアパートにやってきたガス料金の請求書は、昨年の70万リヤールから450万リヤールに一気に値上がりしたとのこと。
 3フロアー3所帯のアパートで、この請求額を3で割った金額がそれぞれの所帯の負担となるのですが、2ヶ月で150万リヤール(1万2千円くらい)というのは、イラン人公務員以下の所得で生活している身にはつらいものがあります。
 私よりも収入が多いはずの大家さん一家もこれはたまらんと思ったのか、抗議を行ったとのこと。どうなったのかと思ったら、「分割払いでもいいよ」という政府の回答だったとか。分割払いをしている間にまた次の請求が来るじゃないかと、テヘラン市民は怒っているとのこと。とりあえず、私への請求はまだ来ていないのでまだもめているのでしょう。
 私にとって不思議なのは、こうなることはあらかじめ分かっていたのに、何の対抗措置も取っていなかったテヘラン市民の方なのですが。「補助金をカットする代わりに現金を渡すので、自分でコントロールしなさいよ」というのが補助金カットと支給金の意味だったはずなのですが、現金をもらって嬉しくなってしまい、後のことは考えなかったのだろうなあと思った次第なのでした。

 また、このガス料金にショックを受けたのか、大家さんが暖房を止めてしまいました。
 私のアパートはイランでよく見られる「シュファージュ」という暖房で、ボイラー室で温めた温水を各部屋で回すことによる暖房方式です。
 このボイラー室の運転を止めてしまったらしいので、私も部屋のシュファージュの栓も閉めました。
 その翌日のことです。部屋に四カ所あるシュファージュの元栓から水漏れがしていて、部屋の床が水浸しになっています。どうやら元栓が古くなっていて水漏れしてしまったようです。
 慌てて大家さん宅に駆け込み、修理してもらおうとしてもらったところ、じゃあ、ボイラー室の大元の元栓を止めるから、とのこと。確かにそうすれば水は止まるでしょうが、根本的な解決にはなっていません。来年また同じことを繰り返すことになるはずです。

 ノウルーズ中、国内を調査のために旅行していたのですが、あるホテルでのことです。某英語旅行ガイドブックに「古代の(ancient)ホテル」と書かれるほど古いホテルに二晩泊まりました。
 部屋の鍵を外から開けることはできますが、中から閉めることができません。ガチャガチャと鍵と格闘し、閉めることができたと思ったら今度は開けることができなくなってしまいました。
 外に電話をし、助けに来てもらったのですが、「外からなら閉まるのなら」ということで、ドライバーを取り出し、鍵を取り外し、中と外が逆になるように取り付け直してしまいました。
「これで中から閉まるだろう?」
 確かに、中から閉めることはできるようになりましたが、今度は外から閉められないだろう?鍵を修理するとか、新しいものに取り替えるとかした方が良くないか?と、ちょっとがっくり来てしまったのでした。

 こういうことにはあちこちで遭遇します。
 とりあえずその場をしのぐ、という意味ではとってもたくましい人たちなのだけど、根本的な解決にはなっていなくて問題を先送りしているだけなのだよなあと、思わずにいられなかった次第なのでした。

人気blogランキングへ
[PR]
by sarasayajp | 2011-04-17 03:35 | イラン人 |
2009年 12月 19日 |
 大学内のある教授から、ねちねちとした嫌がらせを受けていてうんざりしています。
 ある日、「いい加減にしてもらいたいものなんですがねえ」とある日本人にこぼしたところ、「死んだ後に化けて出て来られないから、生きているうちにしつこくからむのでは?」と返ってきました。

 そういう見方もあるかと少し気分が変わりました。

 確かにイランでは死んだ後に化けて出てくる文化(?)はありません。死ねばそれで終わり、あとは最後の審判を待ちながら、週末ごとに家族に会いに戻ってくるだけです。

 イランでは、亡くなった家族の魂が週末ごとに家族に会いに戻ってくる、と言われていますが、自分の埋葬された墓に戻ってくるのか、墓はシンボルのようなもので「家族の許」へ戻ってくるのかは人によって考え方が少しずつ違っているようです。
 しかし、とにかく、日本のような生前の姿をとった「幽霊」ではありませんし、「死後に恨みを晴らす霊」「恨み故に成仏できない霊」というのもいないようです。

 ではイランにいわゆる「幽霊」がいないのかというと決してそうでもないようで、日本人同士で怪談をしていると、「そんなものはいない」と言い切るイラン人もいれば、その存在を認めているらしい人もいるようです。「自分も見た」「金縛りにあった」という人もいます。とはいっても、「知人や家族の霊につきまとわれた」とか「霊障で困っている」「自分を悩ます霊を徳の高いルーハーニーが成仏させてくれた(あるいは追い払ってくれた)」とかいった話にはならないようです。もしかすると、きちんと調査をしてみたらそういう話もあるのかもしれませんが、少なくとも、私の周囲ではないようです。

 そういえば、誰かをしつこく恨む人を「キーネ・ショトル(直訳すると駱駝の恨み)」と言います。駱駝は誰かに受けた仕打ちに対する恨みを忘れず、何年経ってもそれを晴らさずにおかないのだそうです。そこから来ている言葉なのでしょうが、個人的にはちょっとのんびりしたイメージで、深く・しつこく恨みつづけるという感じではないのでした。実際の駱駝は気性も荒いし、人の言うことをなかなか聞いてくれないのだそうですが。

 精神的・物理的に迷惑を被ってはいますが、幽霊になって出てこられるほどのエネルギーではないでしょうし、まあ、日本に戻るまでしばらくの間、適当にやり過ごすしかないようです。

人気blogランキングへ
[PR]
by sarasayajp | 2009-12-19 21:46 | イラン人 |
2009年 10月 13日 |
 テヘラン市内にある人文科学研究所へ出版の打ち合わせ。
 少々緊張して研究室へ入ると、50代後半かもう少し上くらいの男性が二人。
 どちらが約束していた方なのかと内心焦っていると、一方が立ち上がり、「お茶でも飲む?」と一言。「いえ、そんな、お気を使わないでください」と返すと、「いやいや、用意はできているんだから。そこに座って待っていなさい」とさっさと出て行ってしまいます。どうやらこちらの先生が約束していた先生だったようです。部屋に残ったもう一人の先生は、デスクの引き出しからビスケットを取り出し、「まあ、どうぞ」と差し出してくれます。
 そうこうするうちにお茶を取りに出ていた先生が戻ってきて、原稿のチェックの開始です。

 チェックを入れた原稿を見ながら「どこだっけな」とやっていると、打ち合わせには関わっていない方の先生が、「日本のイラン研究というのはどんなものなのかな」「韓国では14世紀くらいの文書にペルシア語の詩の断片が書かれているのが発見されたそうだけど、日本にもそういうものはあるのか?」「井筒教授(イスラーム研究者・イラン王立研究所にも一時在籍していた)はイスラーム思想と他の東洋の思想を体系化しようとしていたが、それについてはどのように思う?」と話しかけてきます。打ち合わせの片手間に返事ができるような内容ではない質問も多く、冷や汗をかきながらの二方面作戦でした。
 そこからイランの大統領選挙、アメリカの大統領選挙(それも先日のではなく、ニクソンショック後の)、日本の政権交代と話が移っていき、その合間合間に私は原稿の訂正箇所などの注意を受け、打ち合わせ相手だった方の先生は日本の自民党下野の話に何か感じるものがあったのか、「サアディー(13世紀頃のイランの詩人)が(モンゴル軍による)バグダード陥落について詠った詩を知っているだろう?」と、暗唱を始めたところで電話中断。「じゃあ、続きは私が読んであげよう」ともう一方の先生が最後まで詠み、そこでおいとますることに。

 見送りに立ちながら「イランで暮らすのは大変でしょう」というので、「もう10年以上になりますし、まあ、慣れました」と返すと、「そうか。我々は50年以上住んでいるけど、まだ慣れないよ」とのこと。

 イランの学者らしい会話なのですが、何とも言えないまったりとした雰囲気で、楽しい一時を過ごすことができたのでした。しみじみと、ここしばらく続いている大学との交渉は神経をささくれ立たせていたんだなあとも。自分の研究・仕事だけに集中したいものだとは思うのですが、次から次へと予期せぬ事態が起こるというのもイランらしいのかもしれません。

人気blogランキングへ

b0006449_1255620.jpg

ここに巣を作るのだ。


人気blogランキングへ
[PR]
by sarasayajp | 2009-10-13 12:07 | イラン人 |
2009年 03月 31日 |
「イランって、『第一回○○』っていうのを開催するのが好きでしょ?それじゃだめでしょ。日本だと、これだけ長く続けて開催していますっていうのも多いでしょ?」
 知り合いのイラン人大学教授の発言。
 お世話になっている日本人の教授との会話の中での私の発言。
「あ〜〜。空港での指紋の押捺はもうしてませんよ。一ヶ月持ったか持たないかくらいだったんじゃないでしょうか。めんどくさくなったんじゃないですかねえ」

 偶然、同じ日に全く別な場所での会話だったのですが、「ああ、そうか」と、妙に納得してしまったのでした。確かに改めて考えてみると、新しいことを始めるのがとにかく好きなのに、それを継続することにはさほど熱心ではないところがあるように感じることがままあります。それほど「新たな措置」の中には、いつの間にかうやむやになってしまうものも多いのです。そのせいか、法律なども守るのがばかばかしい、どうせすぐに変わってしまうのだから、という意見も出てくるようです。
 学会や研究会、セミナーなどは一回だけの開催でも十分な成果が得られるのか、それとも定期的に積み重ねていくことが重要なのか色々と意見はあるでしょうが、「第一回」、つまり、「私たちが一番最初に手を着けたんだからね!」と言うことにエネルギーを注いでいるように見えるのだとしたら、ちょっと悲しいものがあるかもしれません。

 新しいことを始めようとするエネルギーと継続するエネルギーと。
 バランスの取り方はなかなか難しいようなのです。

人気blogランキングへ
[PR]
by sarasayajp | 2009-03-31 15:40 | イラン人 |
2008年 04月 12日 |
 夕方、乗り合いタクシーに乗ったときのことです。
 授業で使うプリントを作ろうとして用紙が切れていることに気づき、家から少し離れたところにある文房具屋へ。そこで用紙を買い込み、私の住む地区の中を循環している乗り合いタクシーに乗り込みました。

 私の家は乗り合いタクシーの終点で降りて少し歩いたところにあります。
 他のお客がみんな降りた後もまだ乗り続けている私に運転手が不機嫌そうに「どこまで行くの」と言うので、「最後まで」と返すと、「あんたなんか乗せるんじゃなかった」と吐き捨てます。
 何でそんなことを言われなければならないのか分からずにいると、私が降りる予定だった終点の手前でパンを買いたかったのに、終点まで行くとそこへ行くことができないからというのです。

 あまりの態度と口の悪さにちょっとむっとしてしまったため、つい言い返してしまいました。
「パンを買うことが、客を終点まで乗せるというあなたの仕事を果たすことよりも重要ならそうしなさいよ。私はそこで降りて歩くから。最後の審判の日に、あなたがタクシーの運転手としての義務を果たさないで、自分勝手な言い分で客にひどいことを言って迷惑をかけたことを神がどう判断するか知らないけどね」

 運転手は黙ってしまいました。
 結局、運転手は自分が行きたかったパン屋と終点のちょうど中間点で私を下ろしました。彼の良心と、おいしいパン屋へできるだけ早く行きたいという欲求の妥協点がそこだったんだなあと、上り坂を歩きながら思ったのでした。

「あんたなんか乗せるんじゃなかった」というひどい言い方でなくて、「用があるからもう少し手前で降りてもらえないかなあ」と言ってくれれば、「じゃあ、そこまででいいよ」と言えるのにと、同じことをするにしても言葉一つで受け取る側の気持ちはずいぶんと違うということを改めて思ったできごとだったのでした。

 まあ、イランには、日本のような「お客様は神様です」という考え方はないので、こういう言い方をするのだろうなあとは思うのですが。

人気blogランキングへ
[PR]
by sarasayajp | 2008-04-12 19:55 | イラン人 |
2007年 12月 17日 |
 学生たちと話していると時々、あまりに自信満々で、不思議に思う、というか感心してしまうことがあります。

 「私が留学生試験に合格しないわけがない」
 「私がスピーチコンテストで優勝できないのは、審査員が優勝者にひいきをしたからだ」
 「私の試験の結果がこんなに悪いはずがない。十分な試験勉強ができれば満点だった」
 「試験ができなかったのは問題が難しかったからではなく、時間が足りなかったからだ」

 おもわずくらりと目眩がしてしまいます。

 あのね、あなたより能力のある人はきっと沢山いると思うよ。
 感情的なひいきではなくて、アピールできるだけのものがなかっただけだと思うよ。
 あなたはいつもそう言うけど、いつになったら十分な試験勉強ができるのだろうと思うよ。
 時間が足りないということは、あなたにとって難しかったということだと思うよ。

 と言ってみたいのですが、言うとまた言い訳があれこれ続くのは分かっているのでついついやめてしまいます。

 もちろん、自信がないよりはあった方が良いこともありますし、一概に自信を持つことを否定はしません。日本人の自虐的なまでの自信のなさに比べれば、良いところではないかと思うこともあります。
 しかし、客観的・冷静な自分の能力レベルへの判断無しに自信だけ持たれても困るよなあというのも事実であったりします。

 「どうして大使館にあの人を推薦したんですか!? あの人よりも私の方がずっと日本語は上手いし、能力があります!!!」
 などと怒鳴り込まれても、こちらとしては、「それを全部日本語で言えたら能力を認めてあげても良いけど、でも日本語では言えないんでしょ?それに、そういうことを言いに来るような人はやっぱり、日本企業や大使館には紹介できないよ」と思うのですが、本人だけがそうは思っていないので困ります。
 じゃあ、ということで、客観的評価のために試験をしてその結果で、と試験をすると、今度は「今回の試験の結果は私の本当の実力ではありません」となります。

 はじめの頃は、仕事を手にするため、点数を上げてもらうためにはそう言わなければならないんだろうなあ、などと思っていたのですが、どうもそうではなくて、本当にそう信じているらしいということが分かってきてびっくりです。

 イランの子供、特に都市部の子供は家の中では王様です。
「あなたはかわいい」「あなたは優秀」「あなたはすばらしい」とちやほやされて育ちます。
 その結果、なんだか自信満々な子供になるということがあるようです。もちろんそれだけではないのでしょうが。

 でも、そんな風に甘やかしているようでいて、しつけという面ではちゃんとしているところが感心するところで、良いことは良い、悪いことは悪いとちゃんと親をはじめとする周囲の人が注意しています。
 日本のように、萎縮させ、自信をなくさせるような叱りつけ方に比べれば、イラン式の方が良いような気はするのですが、しかし、やはりどちらにしても程度というものがあるのかも、という感じがしないでもありません。

 これから始まる試験シーズンのことを考えると、今からちょっと頭が痛かったりするのでした。

人気blogランキングへ


[PR]
by sarasayajp | 2007-12-17 12:28 | イラン人 |
2007年 12月 12日 |
「もう他に仕事を入れたら駄目だよ」
 と、冗談を言われながら新しい仕事がスタートしました。
 日本語の本をペルシア語に翻訳・出版するのですが、色々な意味で面白そうであり、なおかつ私にとっても有益そうなので楽しみです。

 ただ、この仕事の過程で「ああ、またか」と思ったことが一つありました。
「外国人とは契約しません」
「従って、翻訳者として名前を出せません」
 イランの公的機関はいつもこんな感じです。特に、大統領が替わってからは排他性が以前にも増して強まっているようです。

 先日、アメリカが「イランは核兵器開発をストップしていた」と認めたことに対して、やるだろうなあとは思っていましたが、本当に、大統領閣下が勝利宣言をしてくださいました。
 まあ、それはそれで構わないのですが、でもやはり、何だかなあという感じです。

 もともと、「自分たちは高度な文明と文化を持っていた(あるいは今でも持っている)」と信じ、実際、そう言っても決して間違いではないであろう歴史を持ち、現在も高い能力を持っている人たちですから、そのプライドたるものやこちらがびっくりするくらい高いものがあります。その表し方がちょっと独特なので、こちらは戸惑ってしまうことがあるのですが。

 外国のものを積極的に取り入れることが好きで、また外来の新しい文化や技術が好きな割に、それを否定もしたいというところが難しいところです。そして最近は、大統領閣下のイラン孤立主義が、外国否定の傾向に拍車をかけているのかな?という感じがしています。大統領閣下が本当にそういう主義を持っているのかどうかは分かりませんが、そう見えて仕方がありません。

 そういった政治に影響を受けやすい大学であるテヘラン大学の外国語学部でも、最近は、「外人講師など必要ありません。イラン人だけで十分な教育ができますから」だそうです。
 外国語を学ぶのにネイティブ講師など全く必要ないと断言してしまうことにまずびっくりして、そのくせ外国語教材は欲しくて、各国の協力機関に寄付させればいいとを考えるその態度に唖然としてしまいました。
 日本の外国語大学がどんな様子かは良く分からないのですが、大抵の語科でネイティブの教授あるいは講師が一人くらい教えていたように思います。私は大学に関しては、日本とイランくらいしか知らないのですが、イランのような考え方をする国の方が普通なのでしょうか?

 私の場合は「イランで学位を取っているのだから」ということでなんとか受け入れられるのですが、海外で学位を取った外国人だったら受け入れないということなのかなあ?それとも、欧米人なら受け入れるのかなあ?とちょっと悩む今日この頃なのでした。

人気blogランキングへ
[PR]
by sarasayajp | 2007-12-12 12:46 | イラン人 |
2007年 11月 24日 |
 昨日は、早めに片付けなくてはならない仕事がありながらも、何となく気分が乗らない日でした。集中できないまま、調べ物ついでにあれこれ見ていたあるページで見つけたジョークに笑ってしまいました。

「国際会議で最も難しいのは、いかにして日本人に喋らせるかと、またインド人をいかにして黙らせるかである」


 このインド人をイラン人に替えてもいいなあと。

 イランの人にこちらの用件を伝えるのはなかなか大変なときがあります。
 察しの良い人たちが多いので、こちらがもたもたと用件を話しているうちに、「分かって」しまうらしく、こちらの話が終わる前にぺらぺらっと返事を始めてしまうのです。もちろん、それで助かることの方が圧倒的に多いのですが、その「分かってしまった」内容が実はこちらの意図とは違っていたという場合は大変です。
 こちらが、「いや、そうではなくてですね」と言ってもなかなか切り替えができない人が意外といるのです。
 「だからこうなんでしょ」
 「あ、だからそうではなくてこういう…」
 「だから、こうだって言っているじゃない」
 「あ~そうじゃなくて、これがこういうことで…」
 「だから、こういうことなんでしょ!!」
 「あ~~~、お願いですから、話を最後まで聞いてください」

 ここに、「何々?」と援軍が加わってくるともう大変です。すったもんだとやりとりをした挙げ句に、「もっと早く言いなさいよ」と言われてしまったりします。「言ってるって…」というこちらのぼやきは日本語にとどめておかなくてはいけません。

 雄弁とか能弁というのが会話や演説のテクニックとして確立しているからでしょうか。あるいはそういう環境で子供の頃から育つからなのでしょうか。とにかくこちらの人はよく喋ります。(もちろん無口な人もいますが)大した話題でもないのによくこれだけ話が続くよなあと、思わず感心してしまうくらいです。友人などと話しているときに、「どうして話さないの?」と言われることがありますが、口を挟むどころではありません。

 ということで、イランに来て大分話すようになったとはいえ、私なんて、こちらの人に比べたら、まだまだ「無口な日本人」だなあと脱力してしまうばかりです。

 そういえば、「沈黙は金なり」にあたることわざがペルシア語にもあるそうなのですが、こちらでは、しゃべり倒した方が得なのかも?という感じがするなあともちょっと思ってしまうのでした。


人気blogランキングへ
[PR]
by sarasayajp | 2007-11-24 20:57 | イラン人 |
2007年 11月 10日 |
 この週末は、寝込んでいた間にできなかった仕事を片付けよう!と決意をしていたのですが、気がついたらひたすら寝ているだけの週末となってしまっていました。溜まる一方の仕事に、これはちょっとまずいのでは、とは思うのですが、身体の方がなかなかいうことを聞いてくれません。年をとるというのは無理がきかなくなるということなんだなあとしみじみ感じてしまう今日この頃です。

 溜まっていく一方の仕事というのはほとんどが翻訳の仕事なのですが、ジャンルが様々な上に、ペルシア語→日本語だったり、日本語→ペルシア語だったりで、ちょっとくらくらしています。

 こんな風に翻訳を引き受けていて、それから大学で色々な人と話をしていてちょっと不思議に思うことがあります。
 自分の研究対象とする国の言葉も知らずに研究をしている、あるいはしようとしている人が意外と多いということです。

 日本の経済、教育、建築、言語学等々ジャンルは様々ですが、「英語を使えば十分研究できるから」と日本語を勉強する気はないという人が、どうしても使わざるを得なくなったからと日本語の資料や論文の翻訳を持ち込んでくるのです。
 確かに、日本関係の研究をするのに日本語は絶対に必要ではないかもしれませんが、少しくらい勉強しておいた方が良いんじゃないの?と思ってしまう私の方がおかしいのでしょうか。

 「翻訳ソフトもあるし、自分で勉強する必要なんてない」と言う人もいて、なんだかちょっと考えてしまったのでした。確かに日本語→英語なら翻訳ソフトも沢山ありますし、ネット上でも翻訳サイトはあります。しかしそれにだけ頼っていて本当にいいの?という感じもするのですがどうなのでしょう。

 言葉の翻訳や置き換え、定義などちょっとしたところで厳しい突っ込みを入れられてしまう人文系の学会や研究会を体験していると、こういうおおらかな考え方というのはちょっとカルチャーショックであったりするのでした。

人気blogランキングへ
[PR]
by sarasayajp | 2007-11-10 18:31 | イラン人 |
ページトップ
XML | ATOM

個人情報保護
情報取得について
免責事項
Yuzuki Skin by Sun&Moon