イランという国で
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勉強不足
2007年 07月 11日 |
 先日、必要があって自分の博士論文を読み返しました。
 読んでみてびっくりです。
 自分で書いておきながら自分で理解できない部分がいくつもあるからです。

 これを提出してから二年間、文学からは少し離れて違うことをしていたからといっても、これでは「イラン文学を研究していました」とは言えないだろうと自分に突っ込みを入れたくなってしまったほどでした。

 昔々、日本で大学を卒業した際にある先生から言われた言葉を思い出しました。
 以前、どこかの大学の卒業式でその大学の学長が贈った言葉だそうです。
 細かな部分はあいまいですが、このようなものでした。

 大卒ということはそれほど価値のあることではない。それは大学を卒業することのできる知識と能力があるという証明書に過ぎないし、それには賞味期限がある。科学の進むスピードが速い現代においてそれはせいぜい四年ほどだと思う。卒業してからも知識を得るよう努力しなさい。

 その当時の私は、これを聞いてなるほどと思ったのでした。思い出してみてもその通りだなあと思います。

 「博士号」を持つ自分は偉い存在で、尊敬されるべきと考える人は日本にもイランにもいます。
 しかし、自分も博士となってみて分かるのですが、人に威張るほどものすごいものじゃないよなあと思うのです。確かに自分の研究テーマについては研究を通して人よりも精通し、それを論文としてまとめることができたという意味ではそれなりの自信も誇りもあります。でも専門以外のことまで知っているかというと怪しいものです。結局、博士号を取っただけでは、研究者としての一歩目を踏み出すことができたというだけで、ごく狭い分野での専門家に過ぎません。

 以前にもちらっとこぼしたことのある日本人講師が、博士であることがすべてであるという人でした。名前に博士を付けて呼んだり書いたりしないと怒るということも不思議でしたが、博士というものに対する考え方も不思議な人でした。
 日本語学科では、日本語を教える上で必要な知識やテクニックを向上させるため、定期的に講習会を行っています。講師の中には日本語教育の専門家ではない人もいるため、これはとても大切なことであり、必要なことです。しかし、この人は、「どうして博士である私がそんな講習を受ける必要があるんですか」と、参加を勧める専門の先生に言い放ちました。それを知った私たちはみんな耳を疑いました。「この人の専門はイラン古典文学であって日本語じゃないわけでしょ?どうして博士号を持っていることが、日本語教育を完璧に行える理由になるの?」

 イラン人の先生によると、イラン人でもこういう人はいるそうです。

 博士になり、職を得るとそれで終わり、とばかりに新たな知識を得ることをサボり、実験もせず、10年一日といった講義をするだけで終わり、という人も多いとか。特にイランでは自分の手を使って何かをすることは立場の低い人間が行うことだという意識がまだ強い人もいるので、学生と一緒に実験や現場での実習を行っている人を変わり者扱いする教授たちも結構いると、知り合いの教授がこぼしていました。日本でもこういった大学教員はいますが、真面目に新たな知識や情報を得ようとしている人を変わり者扱いはしないよなあと、なんだか不思議に思ったものでした。

 せっかくの長い夏休み。忙しい忙しいで後回しにしていた本を読んだり、まとめるべきものをまとめたりしてみようと思った次第なのでした。

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by sarasayajp | 2007-07-11 17:22 | いろいろ |
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