イランという国で
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援助・支援のこと
2007年 03月 27日 |
 能登半島で激しい地震がありました。
 被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。

 この地震のニュースを見て、先日友人から聞いた話を思い出しました。

 イランのバムでの話です。

 皆さんもご記憶のことと思いますが、三年と少し前、バムで3万人近くの人が亡くなるという激しい地震がが起こりました。

 地震の規模で言うなら神戸や新潟、そして今回の能登半島の地震の方がずっと大きかったのですが、地震に対する備えの全くない場所で未明に起こった地震ということで信じられないような死傷者を出した地震でした。

 被害の状況が明らかになるにつれ、世界各国から被災者を助けるために人、お金、物資がバムに集まってきました。
 日本からも地震直後から様々な形で援助や支援が送られています。話によると、援助額をはじめに表明した額と同じだけ出しているのは日本くらいだとか。
 それそのものは約束を守る国であるという信用に繋がることであり、評価すべき点なのでしょうが、その運用の仕方に関してはどうなのだろうと思うことがあります。

 一つは、私自身もバムで見聞きしましたし、友人から聞いた話でもありますが、日本の援助・支援団体があまりに現地の人々の習慣や感情を無視した傍若無人なふるまいをしていた(あるいはいる)事についてです。「もう日本人には来て欲しくない」とまで言う人もいて、非常に考えさせられました。

 日本のやり方を押しつける。現地の状況を無視した援助物資を持ち込む。援助・支援を受ける人の感情を考えない自己満足な活動をする。等々。

 「日本の経験を」という言葉をどれほど耳にし、どれほどそれが嫌がられていることか。イランの内務省で、バムでどれほど「どうして日本は自分たちだけが経験を持っていると考えているのだ?」「現地のことは我々の方が知っているのに」という言葉を聞かされたことか。
 全くもってその通りです。反論の言葉もありません。
 神戸をはじめとする日本国内でさえ、それぞれの地域でそれぞれの事情や情況があり、全く同じ形の援助や支援ができるということはないはずです。それなのに、どうして「日本は地震に対する経験があるのだから、私たちの言うことを聞きなさい」という態度でイランの人たちに接するのでしょうか?これは傲慢以外の何ものでもないように思います。

 今もバムで被災者の支援をしているイランのNGOの人たちが、「3年経ってもまだバムの人のタアッロフってよく分からないわ」とこぼしているとか。
 タアッロフというのは色々な意味があるのですが、この場合、例えば、「どうぞ、お茶だけでなくてお菓子もどうぞお取り下さい」とか「どうぞ、私の家で食事をしていって下さい」とお客に何かをすすめたりすることです。
 テヘランなどでも、旅行者や知り合ったばかりの人に対して「私の家に遊びに来てください」「どうぞ、お茶でも飲んでいってください」「どうぞ食事でもしていって下さい」「私の家に泊まって行きなさい」等々、様々なタアッロフがあります。
 もちろんこれらは心からそう思っている場合もありますが、多くは「そう言わなくてはいけない」という彼らの習慣あるいは文化に基づくものであって、断ることが前提になっています。「ありがとう。でも、これから用事があるので遠慮します」と断って見せ、それでもなお誘われた場合にはじめて、「じゃあ」ということになるのです。これが分かっていない人はタアッロフの分からない野暮な人になるのだとか。
 これがテヘランだと、二三度の「どうぞ」「いいえ」というやりとりで本気かどうか分かるのですが、テヘランの人によると、バムの人たちのタアッロフはテヘランよりも熱心に見えるために回数を多く断らなくてはいけないし、それでもまだこれで良いのかどうかと心配になるほどなのだとか。イラン人同士でも、他地域への援助・支援に関してはこれほど気を遣っているのです。
 ところが、日本をはじめとする海外の援助・支援グループの人々は、勧められるままにほいほいと被災者の家に上がり込み、貴重な食事を勧められるままに平らげて帰ってしまうのだとか。「J○ICAの人にはもう来て欲しくない」というのはかなりショックな言葉です。
 また、イランの人たちは基本的にとても親切で礼節を知る人たちであるため、相手が自分たちに親切にしようとしているのだと分かっていれば、それが自分たちの意に染まない行為であったとしても「ありがとう。とても嬉しいです」とお礼を言ってくれます。それを簡単に丸呑みして「自分たちはすばらしい支援をしているのだ」と考えてしまうのだとしたら、それはあまりにナイーブというか何というか、ちょっと悩ましいところです。

 自分の行動が相手にどう見られるか、あるいはどのような行動基準・倫理を持っているのかを把握しないで行われる支援というのは、支援どころが相手に対する迷惑行為になることすらあるのだと現地の人たちの声を聞いていると感じないではいられません。

 私がペルシア語を話し、イランの大学を出ているからということでぽろりと漏らしてくれる本音を耳にするたび、あるいはそうした本音をぶつけられた友人や知人から話を聞く度、どうしたものかと気分が重くなります。

 自己満足のための、あるいはノルマ達成のための援助・支援ならしない方が良いのかも、と思うこともあります。

 家族や親戚、近所の人のために援助物資を受け取りに来たら「何度も来るな」と怒鳴りつけられた。自分は女性だが、医師も通訳も男性だったために言えないことがあった。一回目は親切にしてくれたのに、二回目には「あの人は図々しいから」と会ってくれなかった。自分たちの好きではない音楽や歌を演奏しましょう、歌いましょうなどと押しつけてきた。高度な医療機器をもらったが使い方が分からない。等々。

 イランに対して援助を行うのなら、イランについて詳しい人などにぜひどんなことに注意すべきなのか、イランの人が宗教観を含め一般的にどんな考え方をするのか、そういったことをぜひ尋ねて欲しいと思います。イラン人の通訳を使っているのだから大丈夫、と言われたこともありますが、イラン人通訳にとっては当たり前のことで気付かなかったり、あるいは通訳自身が一人のイラン人として遠慮して言えなかったり、また雇用者である日本人に媚びて都合の悪いことは言わないということもあるそうですので、お手軽に済ませようとしないで、様々な形でリサーチは行って欲しいと思います。

 初期援助は混乱の中で行われますから色々と仕方がないところはあると思います。しかし、混乱が一段落してからの支援の仕方にはもう少し工夫が必要なのではないだろうかということを、地震のニュースを見ながら改めて考えてしまったのでした。

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by sarasayajp | 2007-03-27 16:32 | いろいろ |
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