イランという国で
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無知の知
2006年 12月 11日 |
 知り合いの家へ行くためにタクシーに乗っていて運転手と大げんかになりました。
 理由はあまりにも下らないのですが、運転手が行き先をよく知らなかったからです。
「どうして自分の行き先を知らないんだ!!!」
「初めて行く家の場合だってあるでしょう。それのどこがいけないっていうの?」
「普通、タクシーに乗るときは自分の行き先くらい知っているもんだろうが!?」
「へええ。じゃあ、イランの人は自分が始めていく家の時にはタクシーは使わないのね」
 と、あれこれ言い合っているうちに目的地近くに。住所にある通りと似た名前の通りがありました。すると運転手が得意げに言いました。
「あんたはペルシア語を書けないだろう。だから、このメモを書き間違えているんだ。ここだろ?」
「あのねえ。私はちゃんと地図を見てメモをしているんだから間違えてないわよ。このもう少し先にこのメモの名前の通りがあるんだからもう少し先に行ってよ」
「いや、あんたが間違えているんだよ」

 実際、運転手の方が間違えていたのですが、こんなことはよくあることです。
 自分が知らないことを知らないと認められないで、相手が間違えていると決めつける人はイラン人に限らず意外と沢山います。上の例の住所もそうですし、人の名前でも、その村にある遺跡・史跡でも、自分が聞いたことがない名前だと「イラン人にそんな名前の人はいないよ」「そんな場所はここにはないよ」と、断言してみたり。断言するだけならまだいいのですが、大抵は「あなたが間違えているんだよ」とこちらに矛先を向けてくるので嫌な気分になります。
 どうして知らないことを「知らないなあ。本当にあるの?」くらいで止めることができないのでしょうか。どうして「あなたが間違えている」と断言できるのでしょうか?この考え方はどうにも不思議です。自分はありとあらゆる事を完全に知っていると考えているのでしょうか?外国人はイランのことを何も知らないのだから、自分が知らないことは外国人が間違えているからだと考えているのでしょうか?自分が知らないかもしれないという可能性をどうして考えることができないのでしょうか?
 イラン人同士で話をしているときもこんな感じなのでしょうか?それともこちらが外国人だからそういう対応になるのでしょうか?ちょっと気になるところです。

 少し話は違いますが、この「知らないことを知らないと認められない」という部分とイランの人に多い「人に親切にする」という部分が混じり合うと大変な目に遭ってしまうことがあります。

 旅行や調査などで目的地が上手く見つからない場合、地元の人に「○○を知らない?」と尋ねます。すると、自分がよく知らない場所なのに道を教えてくれてしまうのです。知らないと言いたくないのか、あるいは教えてあげなくてはと思うあまりに曖昧な記憶のまま教えてくれるのかはっきり分かりませんが、とにかく、堂々と、全く方向違いの間違えた情報を与えてくれることが良くあるのです。三人くらいに聞いてからではないとそれが正しいかどうか判断できないと言われているくらいです。
 知らないことは知らないと言ってくれた方が親切なんだけどなあと、聞く人ごとに違う情報を与えられる度に困ってしまうのです。

 もちろん、イラン人だけのことでなく日本人でも自分が知らないことを知らないと認められない人は結構いますし、自分も時々そうなってしまうことがあります。気をつけなくてはと、時々自分を戒めるのですが、なかなか難しいものです。
 「無知の知」という言葉がありますが、それを実践するのは大変です。ついついプライドが邪魔してしまったり、勘違いをしていたり、知っているつもりになっていたり。

 私がテヘラン大学から日本語を教えないかという話を受けたとき、日本語を話すことはできても教えることはできないと悩み、何人かの先生に相談をしました。その時に言われたことが、「別にそんなことは問題ではない。これから勉強していけばいいのだから。それよりも、学生などに何か質問されたときに自分が知らないことを知らないとちゃんと言うことが大切だ。知らないから調べてきて後で教えると言えばいいのであって、最初からすべてを知っている必要などない」ということでした。
 専門家でも知らないことにぶつかることはあるし、知っていることでも違う角度から質問された場合はやはり確認を取らなくてはならない、そんな時に「知らない」「確認してから」と言うことができないことの方が良くないのだというその言葉に肩の力が抜けました。
 確かに、難しいことを聞かれて「次の時間までに調べておくね」ばかりの先生もどうかは思うのですが、それでも間違えたことを教えるよりはいいやと開き直り、休憩時間に参考書で確認したり専門の先生に質問したりするように努力しています。それでも時々、自分でもあやふやな知識のまま教えてしまって後で冷や汗をかくこともあり、そのたびに反省です。

 学生には文法事項に関しては頼りない先生だと思われているかもしれませんが、嘘や間違いを教えるよりはずっといいはずですし、私自身もこれまで自分が当たり前に使っていた日本語の文法について、「そういうことだったのか」と知ることができて楽しんでいます。

 しかし、授業中、学生から「先生、それは試験に出ますか?」「そんなことを覚えて何の役に立つんですか?」という言葉を投げかけられることがあります。知ることを最初から放棄したこうした言葉は悲しいものだと思わずにいられません。知らないことを知る楽しさを少しでも教えることができたらいいなあと思います。

 でも、考えてみたら、義務教育ではない大学というのは、「知識を得たい人」が来る場所だと思うのですが違うのでしょうか。

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by sarasayajp | 2006-12-11 12:32 | いろいろ |
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