イランという国で
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平和
2006年 08月 10日 |
 今年も、日本では終戦記念日が近づいています。
 広島と長崎の原爆の日の記念式典の様子は、イランでも毎年報道されていますし、広島と長崎でいかに多くの人が原爆で亡くなったかということはいろいろな場所で語られており、イランの人にとって、日本の地名の中でも「ヒロシマ」と「ナガサキ」はよく知られたものの一つであると言えます。

 原子力爆弾が使われると何が起こるのか、それが一瞬のことでは終わらず、何十年もの間被爆した人々を苦しめることになるということをイランの人々に伝えるため、原爆投下や核兵器を持つことを否定するのでしたら、イランでこれほど「ヒロシマ」「ナガサキ」が語られることをうれしく思うのですが、実際にはそうでないように感じられるため、テレビを見ながら複雑な気分を味わうことになります。

 私の思い違いかもしれませんし、ひねくれた考え方なのかもしれませんが、イランでは、「アメリカが原爆を投下して日本人を大量に殺したこと」を何よりも非難します。
 それ自身は決しておかしなことではないように見えますが、どうしても「アメリカが」という部分が強調されているように思えてならないのです。つまり、「敵国であるアメリカ」を非難するための道具として「ヒロシマ」「ナガサキ」の名前を利用しているように見えるのです。アメリカ以外の国が原爆を投下したのだとしたら、イランはこれほどまでにヒロシマやナガサキに関心を持つだろうか?と思わずにいられないこともしばしばです。

 イランでは核開発関連ニュースを報道する際に必ず、「核の平和利用開発」と言います。自分たちはアメリカと違って、核を平和利用のために利用するのであって、兵器を作るためではないということを強調するためです。もしかしたらイラン政府は本当に核兵器を作るつもりはないのかもしれません。しかし、それはイラン人〜政府中枢にいるごく一部を除く〜にも外国人にも、本当のことなのかどうか確かめる手段はありません。
 冷戦時代、東西両陣営は核を互いに持つことで抑止力が生まれると言い続けていました。イランが同じ理屈で、核兵器を持つことも抑止力を生み出すための平和利用だと言うことだってできるかもしれません。実際、そういう論調を目にすることがあります。
 それから、少し話がずれてしまうかもしれませんが、アメリカでは今でも、戦争を終わらせるためには核を投下する必要があったのだから、核の投下は正しかったという人が多くいます。戦争を終わらせ、平和をもたらすために核兵器が必要だ、と言うことが論理として正しいのなら、それは核の平和利用だと言うことができるかもしれません。

 そういえば、広島市長などからの核開発に関する平和のメッセージに対して、イラン政府が何か回答を示したというニュースは聞きません。都合の悪いことは聞かないふりなのかな?とついつい勘ぐってしまいます。

 イラン国内では、「アメリカが原子力爆弾を日本に投下したことは非難されるべき行為である」という言葉は聞きますが、実際に原爆が投下されると何が起こるのか、どうして核兵器の使用に反対しなくてはならないのかという部分はほとんど報道されていないように感じます。平和運動に取り組むグループなどが、資料写真の展示をイラン国内で行うという取り組みが始まったとは聞いていますが、イランの多くの人は核の危険性についてまだよく知らずにいるように見えます。「我々もウラン濃縮技術を手に入れた!イランはすばらしい国だ!万歳!」という雰囲気があふれているのが実情であり、大学で、被爆の問題について話しても、その意味をほとんど理解できない学生が多く、驚くほどでした。

 今年、広島で行われた式典で読み上げられたこども代表による「誓いの言葉」を読みました。イランでも、ぜひ、一人一人がこの言葉を読み、平和の意味を考えて欲しいと願わずにいられません。

 読まれた方も多いと思いますが、改めて、全文を引用させていただきます。


「こども代表・平和への誓い」

 昭和20年8月6日、午前8時15分。一瞬にして広島の街は何もかも破壊されました。原子爆弾は、高温と爆風で人々をおそい、さらに死の放射能で街を汚染していきました。そして、その年の終わりまでに約14万人もの命が失われました。14万の夢や希望、未来が奪われ、数え切れないほどの悲しみが生まれたのです。

 平成17年11月22日。私たちの身近なところで、とても悲しい、辛い事件が起きました。その事件によって、私たちが当たり前だと思っていた日常は壊れてしまいました。好きな友だちとおしゃべりしながら登下校したり、一人で外へ出ることもできなくなりました。そして、私たちは事件を通して、一つの命の重みを知りました。

 この時奪われた命も、原子爆弾や戦争で奪われた多くの命も同じ命です。一つの命について考えることは、多くの命について考えることにつながります。命は自分のものだけでなく、家族のものであり、その人を必要としている人のものでもあるのです。

「平和」とは一体何でしょうか。

 争いや戦争がないこと。いじめや暴力、犯罪、貧困、飢餓がないこと。
 安心して学校へ行くこと、勉強すること、遊ぶこと、食べること。
 今、私たちが当たり前のように過ごしているこうした日常も「平和」なのです。

 世界中のどこの国も「平和」であるために、今必要なことは、自分の考えを伝えること、相手の考えを受け入れること、つまりお互いの心を開くことです。人間は言葉をもっています。心を開けば対話も生まれ、対話があれば争いも起きないはずです。

 そして、自分だけでなく他の人のことを思いやること、みんなと仲良くすることも「平和」のためにできることです。

 私たちはこれまで、祖父母や被爆者の方から体験を聞いたり、「平和」について学習したりする中で、原爆や戦争のことについて学んできました。しかし、まだまだ知らないことがたくさんあります。これからもヒロシマで起きた事実に学び、それを伝えていかなければなりません。

 私たちは、命を大切にし、精いっぱい生きることを誓います。
 私たちヒロシマのこどもは世界中の国々や人々との間の架け橋となり、「平和」の扉を開くために一歩一歩、歩み続けていくことを誓います。

平成18年8月6日

こども代表 
広島市立南観音小学校6年 新谷望
広島市立楽々園小学校6年 スミス・アンジェリア



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