イランという国で
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外国語
2005年 09月 22日 |
 このところ、「外国語を学ぶこと」と「学んだ外国語を使うこと」について色々と考えさせられることが続きました。

 イランに割と長く住んでいるためか、日本人イラン人両方から、「ペルシア語を使える仕事はないでしょうか?」「日本語を使う仕事はないだろうか?」と相談を受けることがあります。
 実はこうした相談が一番困るのです。
 「ペルシア語を使ってこういう仕事がしたいです」とか、「こういうことができるのですが、それに関連した仕事はないでしょうか?」というのならまだ相談の乗りようがあるのですが、言葉を使った仕事、というのは通訳くらいしか紹介できません。

 もちろん、最初から自分に合った仕事、自分がやりたい仕事、自分にできる仕事がはっきりしている人ばかりではないでしょう。それでも、ある程度の方向性がないと、就職した後で辛いのは本人ではないかと思うのです。日本の企業や大使館で働けるなら、あるいはイランに住むためならどんな仕事でも構わない、という人もいるでしょうが。

 これまでに何人かの日本人から聞いた話です。
 日本語学科の卒業生に日本企業あるいは大使館の仕事を紹介しても、自分に何ができるのかということを考えず、「雑用など(あるいはお茶くみなど)は、自分の仕事ではありませんから、そんなことをさせられるのならこんなところでは働きません」と言う人が多いことは事実です。雇用する側にしてみれば、「日本語を話せる」ということが一番の特技である人に、そんなことを言われてどう思うでしょうか?また、日本語を勉強していながら日本の文化(お茶くみをそう言って良いかどうかは疑問ですが)を理解しようとしない姿勢を見せられて、その人を雇おうと思えるでしょうか?
 日本語を学んだイラン人をなかなか雇おうとしない日本企業にも不満はありますが、例えば、日本語の他に英語も話せる、コンピューターを一通り扱うことができる、事務や営業の能力がある、あるいは技師としての十分な能力があるといったアピールができるだけの努力もせずに、大卒の資格があり、日本語を話せるということであらゆることができるかのような気分になっている人が残念ながら目につくことも確かです。
 日本とはまた違った学歴社会、階層社会であるため、「高卒以下の人がする仕事」「高卒の人の仕事」「大卒の仕事」「修士・博士号を持つ人の仕事」が彼らの中であまりにはっきり線引きされているため仕方がないのかもしれませんが、仕事を得ることよりもプライドが優先するようです。もちろん、そうではない人も多いのですが、文句を言う人の方がその存在が目立つのです。

 昨日会った大学の教授はこのように嘆いていました。
 「外国語を勉強する学生は、『就職口がある』ということしか判断基準にしないのよ。その言葉を支えている文化なんて全然興味なし。言葉は道具の一つでしかないのに、それが全てだと考えているのよ。その言葉が使われている国の事情なんて全然知らない学生もいるわよ。というか、知る気もないのね」
 日本でも外国語を学ぶ時にそういう人はいますから、決してイランだけの問題ではないのでしょうし、言語そのものにだけ興味がある人もいるでしょう。

 例えば、日本でペルシア語を勉強したというある人の話です。
 この人は、とてもペルシア語が上手で、私は常々うらやましいなあなどと思っていました。しかし、しばらくして、彼女がイスラームについて全く関心がないということに気付きました。ペルシア語にはイスラームに関連した言葉が沢山ありますし、イスラームあるいはそれに関連した習慣を一通りでも分かっていないと理解が難しい言葉はいくつもあります。ところが、彼女はそうした言葉を辞書通りに置き換えているだけで、意味は理解していなかったのです。これでは通訳をしても翻訳をしても、また、イラン人とのつきあいも上っ面だけのものにしかならないことが出てきます。もったいない話です。

 日本でもイランでも、「仕事のために外国語を習得する」というにしても、言葉だけを覚えればそれで終わり、で終わって欲しくないなあと思います。イランの人は言語の習得能力が高いだけに、なんとももったいないなあと思うのです。
 
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by sarasayajp | 2005-09-22 12:11 | いろいろ |
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