イランという国で
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議論
2005年 08月 16日 |
 日本ではそろそろ夏休みを海外で過ごした人たちの帰国ラッシュが始まっているそうですね。

 私も休みは終わり、久々に、資料整理と原稿書きに追われています。
 それと同時に、友人、先生、仕事相手など、毎日のように人に会っています。こんなことも随分と久しぶりです。
 久しぶりといえば、秋から始まる仕事に備え、準備やビザの切り替えのために日本へ帰ってきました。春にも帰っていたのですけど、日本の夏は久しぶりです。


 日本へ一時帰国する前も後も、毎日のように人に会っているわけですが、色々と新しいことを教えてもらったり、別な角度からものを考えるきっかけを与えてもらったりしています。


 そうした話の中から気になったものを一つ二つあげてみたいと思います。


 一つめは、「建設的な議論をすること」「他人の意見を聞くこと」です。

 イラン人の先生と話していた時に、私の博士論文の口頭試問の時のことになりました。
論文の内容に関する質疑応答の後、指導教官による論文の講評があり、「最後に、外国人であるあなたに聞きたいことがあります」と、話し出しました。
 非ムスリムであり、外国人である私には冷静に判断できるだろうから、ぜひ聞きたいことがあるのだ、と前置きをして指導教官のS教授が私に問いかけたのは、イスラーム以前と以後のイランに思想の連続性が見られるかどうか、ということでした。
 非常に難しい問題であり、まだ明確な答えが見つけられていない状態であるため、そのように正直に答えたのですが、「イラン文学を研究しています」と言った時に、イラン人以外にイラン文学やイランの文化を理解できるわけがない、という態度を示されることもあるため、イランでもっとも高名な研究者の一人と言って良い先生が意見を求めてきたことにびっくりしました。
 「あのときは本当に驚いたんですよ」と言った私に、先生(指導教官とは別な先生)は、外にいる人の方が問題を冷静に分析することができることもあるのだから、S教授があなたに意見を求めたからといっても全然不思議ではないでしょう?その国の人でなければ問題を理解できないとか、意見を述べてはいけないというのは変な話だし、それでは健全な議論はできないのでは?ということを仰いました。
 確かにその通りです。
 外国人だから理解できる部分とできない部分があるのは当然です。だからといって外からの意見を最初から排除するのでは、可能性を捨てることにつながるでしょう。「外国人だから」という理由だけでその人の意見を排除するのではなく、その意見を聞き、取り入れるべきところを取り入れ、またもし間違えている部分があるのならそれを指摘し、正すことで議論が発展するのではないでしょうか。
 もちろんこれは外国人に限らず、自分とは別な意見と言い換えることもできます。ともかく、自分と違う立場、位置からの意見や視点というものも大切だということです。入手できる情報量の問題なのか、(そういうものがあるのなら)民族性なのか、自分を含め、イランでも日本でも、「もう少し人の話を聞こうよ」と感じることがあります。

 議論と言えば、日本へ戻ってからある雑誌の編集者と会った時にも、議論の大切さの話となりました。
 雑誌に投書をしてくる人の中には、人の言うことに全く耳を傾けず、自分の言いたいことだけを言い、感情的な言葉だけを投げつけてくる人がいて困ることがよくあるとのことでした。

 誰かの言葉が気に入らないと、相手の人格までをも傷つけるような言葉で攻撃してくる人がいます。もし、相手の言葉が間違えているというのなら、どこがどのように間違えているのか、それを読む人が納得できるような言葉で、そして冷静に自分の意見を主張するべきだと思うのに、「あなたは間違えている」「問題の本質を理解していない」「嘘を言うな」などといった言葉で相手を否定するのみで、どこに問題があるのかを示そうとしません。
 こうした人たちは、どうして自分の正しさを示すために言葉を使うことができないのでしょうか?もし自分の意見が絶対に正しいと自信を持っているのなら、それを言葉によって示すことができるのではないでしょうか?
 ところが彼らはそういうことをせず、根拠がどこにあるのか分からない攻撃を繰り返します。困ったことに、そうした行動はエスカレートすることもあります。「あなたにこの問題を語る資格はない」「分をわきまえろ」「身の程を知れ」等々。
 ある問題を語るために必要な資格とはどのようなものなのでしょうか?それを与えるのは誰なのでしょうか?

 上の編集者が言いました。
「子供がけんかをして最後に訳が分からなくなってきて、『おまえのかあちゃんでべそ』って言っているようなものですよねえ。それじゃあ話にならないんですよ」

 言葉を使えるから人間であり、それがまた大人の証なのだと思います。
 私自身、きちんと人の話を聞くことができていたかどうか、反省すると共に、これからも健全な議論ができるように気をつけなくてはと思ったのでした。
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by sarasayajp | 2005-08-16 21:16 | いろいろ |
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