イランという国で
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イランとペルシア
2005年 01月 22日 |
 以前、「ペルシアってどういう意味?」と質問を受けていながら、うっかりとそれに対するお返事を忘れていたことを思い出しましたので、今回はペルシアとイランについてのお話しです。

 日本人に限らず世界各国の人々にとって、「ペルシア」というと絨毯や美しいモスクなどに代表されるロマンチックな印象を受け、「イラン」というと「悪の枢軸」であり、「女性たちが全員黒いチャードルをかぶった後進的な国」というイメージを抱くようです。同じ国なのに呼び名によってこれほどイメージが変わる国というのも珍しいのではないでしょうか。


 他国の人々にとって美しく感じられるこの「ペルシア」という言葉の起源ですが、遠く、紀元前6-4世紀にイランを統治した、世界史の教科書風に言うと「アケメネス朝ペルシア」に遡ります。
 この王朝はイラン人による最初の王朝と言うことができます。
 この王朝の発祥の地がイラン南西部、現在のファールス地方であり、その当時「パールサ」と呼ばれていたところでした。この地方のことを古代ギリシア人は「ペルシア」と呼び、その地方出身のアケメネス朝の人々のことを「ペルシア人」と呼びました。
 アケメネス朝のことをイラン人自身は、「ハハーマネシー(Hakhamaneshi)」と言いますが、これも古代ギリシア語でHの発音が落とされてしまったことから「アケメネス(アカイメネスがより正確)」という音でヨーロッパに伝わってしまったのです。

 アケメネス朝の最大版図は、西はエジプト、小アジアにまで達し、この小アジアで、ギリシア各都市と衝突を繰り返していました。
 「歴史」の作者ヘロドトスをはじめとするギリシアの著作家たちが、自分たちの敵である「ペルシア」について様々に書き残しています。こうしたギリシアの著作を通してイランについての知識を得たため、ヨーロッパの人々は、イランのことを「ペルシア」、イランに住む人たちのことを「ペルシア人」、イランで話されている言葉を「ペルシア語」と言うようになったのです。

 イラン人自身は、碑文によるとアケメネス朝時代は自分のことを「Airya」と呼んでいたようです。もう少し時代が下って西暦4-6世紀頃になると「Eran」と自分たちのことを呼んでいます。現在の「イラン(より正確にはイーラーン)」という自称はこうした古い言葉に基づいているのです。

 ペルシアというのはギリシア人(あるいは後世のヨーロッパの人々)による呼び方であり、また本来は、パールサという一地方を指す言葉でしかないのです。


 最初にお話ししたように、「ペルシア」と「イラン」ではあまりにイメージが違うため、旅行社などがパックツアーを募集する際に、「ペルシアの旅」と書くのと「イランの旅」と書くのでは集客力が断然違うのだそうです。そしてその結果、イランのホテルまでが最近ではその名前を変更し始めています。
 例えば、エステグラール(独立)・ホテルはペルシアン・ホテルに、エンゲラーブ(革命)・ホテルも、ペルシアン・エンゲラーブ・ホテルにといった具合です。外貨と対外イメージのためには革命も節を曲げるようです。

 イラン自身が、世界各国に向かって「自分たちのことをイランと呼ぶように」と宣言して久しいのに、まだまだ世界は東洋幻想から抜け出せず、イラン人自身もそうしたイメージを逆輸入しています。そろそろこういうオリエンタリズムからは脱却すべきなのではないかと思うのですが、現実にはまだイメージが優先されているようです。
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by sarasayajp | 2005-01-22 05:52 | いろいろ |
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